豊中市の歴史
北摂エリアの高級住宅地
大阪市北摂エリアの高級住宅地として知られる豊中。
この街は「能勢妙見山」につづく能勢街道沿いの集落として発展しました。
鉄道の開通後は住宅地の開発が進められ、ベッドタウンとして人気を集めるとともに、
各駅周辺では商店街が栄え、ショッピングの中心地という機能も果たすようになります。
豊中市は高校スポーツ発祥の地としても知られ、現在も当時の面影を感じられるスポットが点在しています。
高校野球発祥の地
1913(大正2)年、箕面有馬電気軌道は現在の豊中市玉井町に「豊中グラウンド」を造りました。
1915(大正4)年にはこの「豊中グラウンド」で第1回全国中等学校優勝野球大会が開催されることになりました。
これが現在の全国高等学校野球選手権大会の前身です。
この大会には多くの観客が集まり、
観客席に収容しきれなくなったため、第3回大会からは「兵庫県鳴尾球場」で行われることになりました。
さらに、1924(大正13)年の第10回大会からは「阪神甲子園球場」で開催されることになり、
以後、甲子園が高校野球の象徴になりました。
「豊中グラウンド」の跡地には1988(昭和63)年に「高校野球メモリアルパーク」が開設され、
2017(平成29)年には「高校野球発祥の地記念公園」としてリニューアルされています。
ここには第1回大会の始球式のレリーフなどが設けられ、当時の面影を偲ぶことができます。
また、現在も1996年(平成8)年に全面改装された「豊中ローズ球場」で高校野球の予選の試合が行われるなど、豊中市に高校スポーツの伝統が受け継がれています。
「高校野球発祥の地 記念公園」は、現在の全国高校野球選手権大会の前身となる
「全国中等学校優勝野球大会」の第1回大会が行われた
「豊中グラウンド」跡地につくられたもので
歴代の優勝・準優勝チームの銘板も展示されています。
現在は「履正社高校」が「大阪桐蔭」と双璧をなす大阪の強豪校ですね。
下記以降はだいぶ昔に遡っていきます。
旧石器時代~弥生時代頃
豊中台地は古くから開発され、先史時代の遺跡や、桜塚をはじめ古墳がたくさん分布しています。
「開発」と言いましても、現在のように工事用のものというものは無く、
全て「人の手」で作業されていました。
前面に低地をひかえた水の得やすい洪積台地の末端は、自然発生的な集落地に選ばれ、
海抜10メートル以下の低地が水田地帯へ発展したのは弥生時代後期以降のことです。
刀根山(海抜48メートル)丘陵南端の大阪層群の地層から大きな象の牙の化石が1本出土し、
日本がアジア大陸と地続きだった第2間氷期から第3間氷期にかけて、
南方地域から哺乳動物とともに、人類も移住したことが知られていますが、
豊中市域に人間が住み始めたのは石器を使った「旧石器時代」とされています。
しかし、その遺跡も数か所に過ぎません。
紀元前4世紀から3世紀に大陸から伝わった金属器を伴う農耕文化はこの地方にも及び、
急速に発展し人口も増え、多数の集落ができました。
それは、共同体の象徴として作られた銅鐸が、
桜塚の原田神社旧境内から発見されたことでうかがえます。
銅鏡を副葬した前期の待兼山古墳、
北摂の古墳文化の隆盛を物語る大規模な中期桜塚古墳群、
また、日本最大の規模をもつ堺市旧陶邑につぐ須恵器の窯跡が、
旧桜井谷村を中心に、後期古墳群とともに分布しているのは、
古代にこの地方がよく開発されていたことを物語っています。
大化の改新
大化の改新により、摂津国豊島郡に含まれ、
条里制が施行されました。条里の跡は今も諸所に残っています。
「原田神社」の旧境内からは銅鐸が見つかっており、
この付近は地域の中心地として栄えていたと考えられています。
この「原田神社」は4~5世紀ごろに創建されたと伝えられおり、
684(白鳳12)年には神宝や神鏡を奉納したことから、
皇族や武家の信仰を集めたといいます。
現在も、境内には1652(慶安5)年の建築とされる本殿をはじめ、歴史的な建造物が残っています。
弊社スタッフも毎年の年初めにはお参りに行かせていただいております。
豊島の名が文献にみられるのは和銅5年(712年)に太安万呂が撰上した古事記中巻からで、
その後、神護景雲3年(769年)5月、称徳天皇が豊島の人15人に、姓(かばね)をさずけた記録が、
続日本記にみられます。
弘仁6年(815年)、万多親王らが撰進した新撰姓氏録には、
当地方の氏族として椋橋部連・天神・服部連・豊島連などの名があります。
これらの氏族の居住地は明らかではありませんが、
とにかく古代のこの地域は、豊島地方の中心であり、大陸から来た人々も多数移住したようです。
全国各地に荘園ができた古代末期から中世にかけての本市域の荘園は、
椋橋荘・利倉荘・六車御稲田などですが、院政期には、豊島地方の山野は多く藤原氏の私領になり、
藤原氏の氏神奈良春日社とも密接に結ばれました。
寿永2年(1183年)、源平争乱のとき、
氏長者の近衛基通から奈良春日社へ寄進された垂水西牧は市内最大の荘園で、
春日社神官から現地の管理者(目代)として下向した今西氏は現在でも同じ場所に屋敷を構えています。
承久の乱
鎌倉時代にも本市域は、歴史の舞台に登場しています。
承久3年(1221年)5月、摂津国長江荘と椋橋荘の地頭が白拍子亀菊の領地を横領し、
これがきっかけとなって後鳥羽上皇と鎌倉幕府の間にミゾができ、
承久の乱が起こったと吾妻鏡、承久軍物語、承久記などに記されています。
また、太平記によれば、南北朝時代に豊島地方を舞台に豊島河原合戦が展開されています。
応仁の乱
ついで室町時代に起こった応仁の乱には、
本市域も戦乱のちまたになったことは想像にかたくありません。
椋橋城などはその代表的なもので、東西両軍が秘術をつくした記録が数多く見られます。
文明2年(1470年)7月26日、西軍が椋橋城を攻めたとき、
城将薬師寺与一の部下、夜久主計が防戦に功があり、
東軍の総帥細川勝元から感状をうけたことが夜久文書に見られます。
また、経覚私要抄には、文明2年8月23日、西軍大内政弘の軍が東軍を破り、
進んで椋橋城を攻めたと記しています。
江戸時代
江戸時代の本市域には、大名に青木氏(1万石)があり、
蛍池に陣屋を築いて政治を行いましたが、
上新田は淀藩の領地、桜井谷には安部藩の陣屋が置かれ、
ほかに一橋藩領、保科藩領や代官支配地、公家領、旗本領などが入り組んでいました。
これは「徳川幕府」が豊中地方を畿内の重要地域として、支配をゆるぎないものにするため、
譜代大名、旗本などの所領を入りまじらせ、さらに天領を支配して、
「碁石を打交候様」な錯綜した「入組支配」を行い、
統一のないものにしたものでした。
このため明治維新の後も、府県、郡村の離合集散を重ねました。
明治時代~昭和時代
明治維新を迎え、廃藩置県後、村々の行政機構は改革され、
数次にわたる行政区画の編成替えなどが行われました。
明治22年(1889年)4月、地方自治制がしかれ、
摂津国豊島郡新免村、南轟木村、山ノ上村、桜塚村、岡町村の5か村を合併して豊中村が置かれました。
「豊中」の地名が生まれたのはこのときで、
「豊島郡の中央にあたる」ことから名付けたと伝えられています。
明治29年(1896年)4月、豊島郡と能勢郡が合併し豊能郡になったので、
豊中村も豊能郡豊中村となりました。
明治43年(1910年)3月、阪急電鉄宝塚線の前身箕面有馬電気軌道が開通し、
沿線は住宅地として開けはじめました。市内の駅は、はじめ服部・岡町の二つでしたが、
開通の翌月蛍池ができ、町の発展にともない明治45年(1912年)5月曽根、
大正2年(1913年)10月豊中、昭和26年(1951)5月庄内と相ついで増え、
現在の6駅になり、市街は駅を中心にしだいに発展していきました。
大阪市に近い地の利と、起伏に富んだ丘陵地帯は、早くから絶好の住宅地として選ばれ、
文教都市の名声が高まるにつれ、人口は急激に増え市街地も大きく広がりました。
戦後の発展はことにめざましく、公営、私営の住宅が建ち並び、
学校・道路・上下水道等都市施設の整備充実、
千里丘陵のニュータウン建設、名神高速道路、
阪神高速道路、新御堂筋、中央環状線等の開通とも相まって、
市勢は急速に発展を遂げています。
現在も「豊中駅」周辺には「豊中駅前一番街」や「豊中銀座商店街」、
「豊中駅前商店会」などいくつもの商店街が集まります。
活気あふれる街並みには、食料品や惣菜、雑貨などを扱う店のほか、
老舗の店から新進気鋭の店まで多彩なグルメの店も集まり、
買い物客の姿が途切れることはありません。
大阪市に近く、丘陵地帯が広がっていた現在の豊中市周辺は、
大正時代から住宅地に適した場所として注目され、大規模な宅地開発が行われました。
1914(大正3)年には箕面有馬電気軌道による「豊中住宅地」が完成、
1920(大正9)年には岡町住宅経営会社による「新屋敷」の住宅地も誕生しています。
交通アクセスの利便性に恵まれ、住環境も良い豊中の住宅地は人気を集め、
人口は急速に増加します。1927(昭和2)年には、豊中村が町制を施行し豊能郡豊中町になりました。
1936(昭和11)年には豊能郡豊中町と麻田村、桜井谷村、熊野田村が合併し、
大阪府下で4番目となる市制を施行し、豊中市となっています。
豊中市は戦後も大阪市中心部に通勤しやすいベッドタウンとして注目を集め、今も高級住宅地として高い人気を維持しています。