吹田市の歴史(千里ニュータウン・関西大学・阪急千里線)
吹田の歴史(お寺・千里ニュータウン・関西大学・阪急千里線)
今回は千里ニュータウン・関西大学・阪急千里線のざっくりな歴史感をお伝えできればと思います。
「千里丘陵」
大阪市の北、約10~15kmに位置する「千里丘陵」は、古くは桃や筍の産地として知られ、
「垂水神社」や「佐井寺(山田寺)」などの古社・古刹も残る歴史ある地。
昭和30年代以降は「千里ニュータウン」の開発と「日本万国博覧会」の開催地となったことで、
全国的に知られるようになっていきました。ニュータウンの開発以前にも、
「千里丘陵」では住宅開発が行われており、
大正期には「千里山住宅地」が、「太平洋戦争」後には「千里山団地」が誕生しました。
こうした住宅地に暮らす人々の足となったのは、北大阪電気鉄道をルーツとする阪急千里線でした。
さらに「日本万国博覧会」が開催された1970(昭和45)年には、
会場の西側に北大阪急行電鉄も開通、
「千里中央駅」周辺は「千里ニュータウン」の中心地として発展しました。
現在の吹田市千里山西三丁目のあたりは、
かつて「河田山(こうだやま)」と呼ばれた桃の名所で、
「三本松」とも呼ばれてました。標高約83mの見通しのきく場所で、
明治期には絶好の眺望の地としても知られ、花見客などで賑わったそうです。
また、江戸中期から大正初期まで「旗振り通信」の中継地でもあったようです。
「旗振り通信」は、堂島の米などの相場を手旗信号で全国に素早く知らせるための手段であったが、電話の普及とともに行われなくなりました。
「垂水神社」
現在、このあたりの最高地点の標高は約76mとなっており、一帯は柿畑などとして利用されている。
「千里丘陵」の南端に鎮座する「垂水神社」は、
「豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)」を主祭神とし、
飛鳥時代の孝徳天皇の御代(645~654年)に、この地の領主だった阿利真公(ありまのきみ)により創建されたと伝えられています。
現在の拝殿は、1974(昭和49)年に造営されたもの。屋根が瓦から銅板になっています。
境内には「垂水の瀧」があり、飛鳥時代には、滝の水が干ばつに苦しむ「難波長柄豊碕宮」に送られ人々を救ったといわれています。
江戸期には新田開発にも利用され、江戸後期の『摂津名所図会』には『清冷甘味、諸病を治す』と記されています。
『万葉集』にある『石走る 垂水の上の さわらびの 萌え出づる春に なりにけるかも』という歌は、
志貴皇子(しきのみこ)が「垂水の瀧」を詠んだものという説もあり、境内には平成の天皇陛下御即位の際に記念として歌碑が建てられました。
「佐井寺」
「佐井寺」は飛鳥時代の677(天武天皇6)年に結ばれた草庵に始まります。
奈良時代の735(天平7)年、行基が土中から栴檀(せんだん)の「十一面観音像」を掘り出し、
山田大臣が大壇主となって伽藍を建立したことから、
「山田寺(さんでんじ)」とも呼ばれるようになったといわれています。
行基は水の乏しかったこの地で、祈祷により「佐井の清水」を湧出させたともいわれており、
「垂水の瀧」とともに「吹田三名水」の一つに挙げられています。
鐘楼は江戸前期の建築様式であり、
現存する近世の鐘楼としては大阪府下で二番目の古さとされています。
現在の本堂は1941(昭和16)年に完成したもの。
千里の特産品だった桃・筍・松茸
江戸時代に新田開発された「千里丘陵」は、
気候や地質的に水田には向いていなかったようです。
そのため、農民たちは桃などの果樹や筍の栽培を行いました。
桃は江戸末期から、現在の上新田・下新田のあたりで栽培が始まりました。
垂水付近は一面桃林が広がり、春には多くの花見客が訪れました。
たわわに実った桃の実は、大阪の「天満市場」に出荷されたほか、
缶詰にも加工され、売り出されていきました。
しかし、大正初期に害虫が大発生して、
多くの地区で桃が全滅し、筍作りへの転換を余儀なくされました。
筍栽培も江戸時代から盛んになり、昭和期には青果用だけでなく缶詰も生産されました。
筍栽培は千里の土地に適しており、特に山田地区の「銀筍」は有名であったようです。
色は白くて柔らかく、しかも歯ごたえがあり、阪神間の別荘地で人気があり、通の中には「日本一」と言う人もいたそうです。
また、「千里丘陵」には、赤松が多く生え、秋には松茸が多く採れました。
人々は、松茸狩りを楽しみ、食べきれないほどの松茸を収穫していたといいます。
こうした果樹園や筍、赤松の多くはニュータウン開発などの市街地化で姿を消したが、
市内の一部では桃づくりが行われ、竹林も残っており当時の面影を留めています。
「千里山住宅地」と「千里山団地」の開発
「千里丘陵」では、大正後期になると北大阪電気鉄道(現・阪急千里線)が開業、
「大阪住宅経営株式会社」などによる住宅開発も始まりました。
北大阪電気鉄道の終点であった「千里山駅」の西側には、
イギリスのレッチワース田園都市をモデルにした「千里山住宅地」が誕生。
また、戦後は駅の東側に「千里山団地」が建設されました。
北大阪電気鉄道
1921(大正10)年4月、北大阪電気鉄道(現・阪急千里線)が「十三駅」~「豊津駅」間で開業、
同年10月に「千里山駅」まで延伸された。開業当初は単線であった。
1923(大正12)年に「新京阪鉄道株式会社」へ経営が移り、
1925(大正14)年に「淡路駅」~「天神橋駅」(現「天神橋筋六丁目駅」)間が開通となりました。
鉄道の開通・延伸により、千里山から大阪市内方面への交通の便は格段に良くなり、
沿線の開発が促されました。
京阪電気鉄道
1930(昭和5)年、「京阪電気鉄道」に合併され京阪千里山線となり、
さらに戦時中の1943(昭和18)年に「阪神急行電鉄」との合併で「京阪神急行電鉄」の路線となった。
戦後の1949(昭和24)年、「京阪電気鉄道」の分離の際、
千里山線は「京阪神急行電鉄」に残された。
その後、1967(昭和42)年に千里山線は千里線へ改称、
1973(昭和48)年に「京阪神急行電鉄」は「阪急電鉄」に社名を変更しています。
「千里山駅」は、1963(昭和38)年に「新千里山駅」(現「南千里駅」)まで延伸されるまでは起終点駅であったようです。
1988(昭和63)年に現在の「千里山阪急ビル」の駅舎がオープンしています。
千里山での住宅開発は、1915(大正4)年9月、9名の発起人により「軽便鉄道免許申請書」が内閣総理大臣宛に提出されたことに端を発します。
北大阪電気鉄道(現・阪急千里線)の敷設が決まると、これに関連して「千里山住宅地」の開発が進められました。
1920(大正9)年に設立された「大阪住宅経営株式会社」は、「北大阪電気鉄道株式会社」が所有する10万3,700坪の土地のうち9万8,300坪を譲り受け、
イギリスのレッチワースをモデルにした「田園都市構想」に基づき「千里山住宅地」を建設しました。
「千里山駅」の西側に広がる「千里山住宅地」は、駅西口の少し先に花壇のあるロータリーが設置され、ここから放射状に道路が延びています。
約2千戸の住宅建設が計画され、1区画は70~80坪で、日本式と改良式(洋風)の住宅が建てられました。
住宅地には電気・ガス・上下水道が整備され、売店や浴場、ビリヤードなどの設備がある集会用の「千里山会館」やテニスコートも造られました。
1924(大正13)年には戸数約100戸、人口は300人余りでしたが、1931(昭和6)年には戸数464戸、人口2,123人となり、ベッドタウンとして発展していく基礎となりました。
「田園都市」
19世紀末、イギリスにおいて「産業革命」により悪化した住環境や労働環境が問題となる中、
社会改良家のエベネザー・ハワードは「田園都市」の建設を提唱。
1903(明治36)年、この理念に基づく初の「田園都市」である「レッチワース」がロンドン北郊で着工となりました。
この「田園都市」の理念は、日本の郊外住宅地の開発にも大きな影響を与え、
1920(大正9)年から開発が始まった「千里山住宅地」では、
中央部の「第一噴水」を中心に放射状の道路も設置されました。
「千里山駅」西口から「第一噴水」方向に続く道路は、
「田園都市」の歴史にちなみ、2000(平成12)年に「レッチワースロード」と名付けられました。
「第一噴水」の東角にあった「文化堂」は開発当初からある商店として長年親しまれてきたが、1997(平成9)年に閉店しました。
「千里山駅」の西側では、大正後期に「千里山住宅地」が開発されたのに対し、
駅の東側は昭和30年代まで、大きな開発は行われませんでした。
「日本住宅公団」
1955(昭和30)年、戦後の住宅問題の抜本的な解決のため「日本住宅公団」(現「UR都市機構」)が設立されました。
「日本住宅公団」は「千里山駅」の東側に、最初期の開発となる「千里山団地」を建設。
入居開始は1957(昭和32)年で、大阪支所の団地では2番目でした。
ゆるやかな傾斜を利用した棟の配置で、4階建ての階段室住棟を中心に、
49棟1,061戸からなり、時代の先端をいく集合住宅として人気を博しました。
建設から半世紀を経て、老朽化した団地の居住環境向上や「千里山駅」周辺の一体的な整備を行うため、
2005(平成17)年「まちづくり懇談会」が発足。「千里山駅周辺整備事業」として、
2011(平成23)年から2014(平成26)年にかけて「UR都市機構」の「千里山団地」7棟340戸の建替え、
商業施設「BiVi千里山」の建設(2015(平成17)年開業)などが行われ、2016(平成28)年には「千里山駅前交通広場」が完成しました。
「関西大学」の開設
北大阪電気鉄道(現・阪急千里線)沿線には、住宅地が開発されるとともに大学の誘致、遊園地の建設も行われました。
大阪市内の上福島に「福島学舎」があった「関西大学」は、広い土地を求めて「千里丘陵」に移転しました。
また、「北大阪電気鉄道株式会社」は、「千里山花壇」(のちの「千里山遊園」)を開園し行楽客を集めました。
閉園後、「関西大学」が跡地を買収、現在は「関西大学 千里山キャンパス」の南側部分となっています。
1920(大正9)年、「北大阪電気鉄道」は、鉄道の開業に先駆けて、
「千里山花壇」を開園しました。四季折々の花を楽しむための施設で、花壇を中心に園路などが設けられました。
「千里山花壇」の場所は現在の「関西大学 千里山キャンパス」の南側部分にあたり、
正門は現在の「高中正門」の場所にありました。翌1921(大正10)年、鉄道の延伸開通にあわせ、
正門前に「花壇前駅」が開設されました。
「関西法律学校」
「関西大学」の前身である「関西法律学校」は1886(明治19)年に大阪西区(現・大阪市西区)の「願宗寺」で開校しました。
1905(明治38)年に社団法人「私立関西大学」へ改組となり、
翌年、大阪市北区上福島に「福島学舎」を建設。
1918(大正7)年に「大学令」が公布されると、
大学昇格に必要となる校地を探し、風光明媚な土地であった「千里山」に白羽の矢が立ちました。
「予科校舎」はその後1934(昭和9)年に焼失、1949(昭和24)年、跡地に大学院学舎や大学ホール、研究室などが建設されました。
現在このあたりには「岩崎記念館」が建っています。
日本一改称の多い駅として知られている「関大前駅」
日本一改称の多い駅として知られている「関大前駅」。
1921(大正10)年10月、北大阪電気鉄道(現・阪急千里線)が「豊津駅」から「千里山駅」まで延伸された際に、
「千里山花壇」の玄関口として「花壇前駅」の名称で開業しました。
その半年後の1922(大正11)年には「千里山駅」と「花壇前駅」の間に「大学前駅」が新設されました。
その後、「花壇前駅」は1938(昭和13)年の「千里山遊園駅」、1943(昭和18)年の「千里山厚生園駅」、
1946(昭和21)年の「千里山遊園駅」、1950(昭和25)年の「女子学院前駅」、
1951(昭和26)年の「花壇町駅」まで、5度改称しました。
「花壇町駅」と「大学前駅」は、わずか400mしか離れていなかったこともあり、
1964(昭和39)年、両駅の中間付近に統合され、
現在の「関大前駅」(写真)が誕生した。「関西大学 千里山キャンパス」へのアクセス駅として、若者の姿も多い。
「千里ニュータウン」の開発
いよいよ「千里ニュータウン」の開発です。
1958(昭和33)年、「千里丘陵」に15万人規模の「千里ニュータウン」の建設が決定となり、
1962(昭和37)年に「佐竹台住区」を皮切りに入居が始まりました。
1965(昭和40)年には、早くも人口が3万3千人となり、日本一のマンモス団地に成長しています。
ニュータウンのアクセス路線の一つとして、1963(昭和38)年、
阪急電鉄の千里山線(現・千里線)の「千里山駅」から「新千里山駅」(現「南千里駅」)まで、
1967(昭和42)年には「北千里駅」まで延伸されました。
日本初の大規模ニュータウン構想「千里ニュータウン」
「千里ニュータウン」は1958(昭和33)年に大阪府により開発が決定され、
大阪の中心部から約10~15km離れた、吹田市と豊中市にまたがる「千里丘陵」に建設が進められました。
計画規模は、面積1,160ha、人口約15万人に及び、この時代では海外でも例を見ない大事業でした。
この「千里ニュータウン」は、北・南・中央の三つの地区に分けられ、
さらに幹線道路で区切って12の住区に分けられています。
各地区には「地区センター」が設けられ、住区ごとに小学校や「近隣センター」も配置されました。
この「近隣センター」には、歩ける範囲で生活が送れるように、
郵便局、警官派出所をはじめとする公共施設のほか、
購買施設、医療施設、公衆浴場(銭湯)などが設けられました。
事業決定から3年後の1961(昭和36)年、「C住区(佐竹台住区)」の「千里南公園」予定地で起工式を挙行。
翌年、第一期の入居が開始されました。「大阪府住宅供給公社」「府営住宅」「日本住宅公団」(現「UR都市機構」)などにより住宅が建設され、
事業計画年度前半の3ヶ年で1万戸、6ヶ年で3万戸の住宅を供給することとなりました。
人口は、実際には計画目標の15万人に達することなく、1975(昭和50)年の12万9千人をピークに減少している。
世界初となる自動改札機
「千里ニュータウン」の住民の通勤手段の確保のため、
阪急千里山線(現・千里線)が、1963(昭和38)年に「千里山駅」から「新千里山駅」(現「南千里駅」)まで、
1967(昭和42)年には「北千里駅」まで延伸されれました。
「北千里駅」は、開業と同時に世界初となる自動改札機10台が設置されたことでも注目されました。
この自動改札機は「立石電機株式会社」(現「オムロン」)の開発で、
定期券(パンチカード方式)と普通乗車券(バーコード方式)に機械が分かれていました。
「北千里駅」の自動改札機は、1972(昭和47)年、定期券・普通乗車券共用の磁気化方式に更新されました。
2007(平成19)年には、「北千里駅における世界最初の自動改札機実用化」が、
電気・電子・情報技術分野において、
社会的に貢献した歴史的偉業を称える「IEEEマイルストーン」に認定されました(「IEEE」はアメリカ合衆国に本部を置く世界最大の電気・電子技術者による学会)。
「千里南公園」は「千里ニュータウン」の建設と同時に整備され、
「佐竹台住区」入居開始の翌年、1963(昭和38)年に開園しました。
園内には「牛ヶ首池」と呼ばれる大きな池があり、
当時はボートが楽しめました。
園内の「千里石ぶみの丘」には、1982(昭和57)年から1987(昭和62)年にかけて寄贈された、
松尾芭蕉、小林一茶、与謝野晶子らの句碑・歌碑など16基があります。
近年、吹田市は利用者の利便性の向上などのため「千里南公園パークカフェ整備事業」を進め、
2019(平成31)年、園内にカフェレストランがオープンした。
1968(昭和43)年に開園した「千里中央公園」には、
開園と同時に園内北側、海抜約100mの場所に展望台が設けられ、
「千里ニュータウン」の名物となった。この展望台からは、360度、六甲・箕面の山々や「万博記念公園」などの眺望が楽しめる。
住民のオアシスとなる一方で、国内や世界各国のニュータウン視察団も多く訪れた。
「千里中央駅」が開業
開園の翌々年には、800mほど西に「千里中央駅」が開業した。
展望台は、2018(平成30)年に発生した地震により階段部分に破損が生じ、利用停止となった。
日本万国博覧会
『人類の進歩と調和』をテーマにして、1970(昭和45)年に開催された「日本万国博覧会」は、
1964(昭和39)年開催の「東京オリンピック」に並ぶ、戦後日本の一大イベントでした。
このアジア初の国際博覧会が、東京都(首都圏)ではなく、
大阪府吹田市の「千里丘陵」で開かれたことは、
関西経済に多大な刺激を与え、千里地域の発展に大きく寄与しました。
会場面積は330haで、3月15日から9月13日までの183日間にわたり開催され、
当初の予想3千万人を大きく上回る、約6,421万人が来場しました。
多数の人々が移動するための交通機関として阪急千里線には、臨時駅「万国博西口駅」が設けられました。
また、大阪市営地下鉄の「江坂駅」と「万国博中央口駅」を結ぶ北大阪急行電鉄が建設され、
閉幕とともに「万国博中央口駅」は廃止となり、現「千里中央駅」まで正式に開通、阪急千里線と並ぶ「千里ニュータウン」の住民の足となりました。
また周辺道路も整備されました。
「太陽の塔」
会期中に多くの人々を魅了したパビリオンは、閉幕後にほとんどが取り壊されたが、
「太陽の塔」は嘆願が実って保存され、「日本庭園」とともに「日本万国博覧会」の偉大な遺産となっています。
「万博」のパビリオン「日本民芸館」は、1972(昭和47)年、「大阪日本民芸館」として開館したほか、
1977(昭和52)年には「国立民族学博物館」も開館しました。
パビリオンが林立していた場所は、撤去後、「自然文化園」が整備されました。
跡地全体は「万博記念公園」として整備されています。
1972年に「エキスポランド」という遊園地が開園となりました。
2009年を持って閉園となり、現在は「エキスポシティ」というショッピングセンターになっています。