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池田市の歴史

歴史

久賀田 康太

筆者 久賀田 康太

不動産キャリア10年

学生時代はサッカーに打ち込みました。現在はゴルフです。
いかに練習に行かずに平均スコアを80台前半に落ち着くよう、
イメージトレーニングを中心に頑張っています。

今回は池田市の歴史を見ていきます。
旧石器時代まで遡ります。

旧石器時代


日本列島に人類が住み始めて、氷河期の最終末である洪積世から沖積世にかわる約1万2千年前までを旧石器時代といいます。約2万5千年前からナイフ形石器の使用が広がり、
池田では宮の前遺跡(石橋4丁目、住吉2丁目)、
宮の前西遺跡(空港1丁目)、神田北遺跡(神田1丁目)、宇保遺跡(宇保町)で出土しています。
伊居太神社参道遺跡(綾羽2丁目)では時代の下る小型ナイフ形石器や尖頭器(槍先状の石器)が出土している。

縄文時代


縄文時代になると徐々に気候が温暖となり、土器の使用、弓矢などさまざまな道具が使われるようになる。 
池田の縄文時代に関する遺構・遺物は少なく、実態はよくわかっていない。
宮の前遺跡では石棒、畑4丁目では尖頭器とよばれる槍先状の石器が京中遺跡(畑3丁目)では石匙石鏃、神田北遺跡でも石匙や石鏃が出土している。
また、豊島南遺跡(豊島南2丁目)や天神遺跡(天神1丁目)では
縄文時代後期の土器が、池田城跡下層(建石たていし町)では
縄文時代晩期のモミ痕のある土器が出土している。
伊居太神社参道遺跡では石鏃や石匙のほか石器製作時にできた剥片が多く出土しており、
キャンプ地ではなく居住場所になっていたと考えられる。

弥生時代


日本列島への水田耕作技術及びこれに伴う生活文化の到来以降を弥生時代という。
その時期は、最近の年代科学の研究によると九州では紀元前10世紀後半にまで遡るとされるが、
近畿地方は紀元前8~6世紀と絞りきれておらず、まだまだ研究途上の段階にある。 
池田では、弥生時代前期末に木部遺跡(木部町)が出現し、紀元前4世紀前半から中頃といわれる中期になると宮の前遺跡、豊島南遺跡など台地に集落がみられるようになる。 
宮の前遺跡は石橋4丁目から住吉2丁目の台地縁辺にあり、
竪穴住居跡、方形周溝墓、土壙墓がみられる。
従来、猪名川流域の拠点集落と考えられていたが、
竪穴住居跡群と方形周溝墓群・土壙墓群のセットが複数あってまとまりをもっていないこと、
環濠がみられないことから1つの大集落ではなく、
いくつかの小集落が集まったものと推定されている。
また、豊島南遺跡はそこから分岐した集落と考えられる。 
西暦1世紀頃の後期になると宮の前遺跡の集落は消滅し、
豊島南遺跡、神田北遺跡(神田1丁目)、池田城跡下層、古江遺跡(古江町)に
小規模な集落がみられるようになる。
また、五月山頂部の愛宕神社遺跡(綾羽2丁目)では高地性集落がつくられ、
池田市域もやがて迎える古墳時代への統合に向かう動乱に巻き込まれたことが考えられる。 

古墳時代


古墳時代の始まりは3世紀末から4世紀といわれていたが、
近年、出土遺物の年代科学の成果や画文帯 が神獣鏡、三角縁神獣鏡の研究などから、古墳時代の始まりを3世紀前半期とし、邪馬台国の動向を古墳時代の幕開けとする意見もみられるようなった。 
 前期の4世紀中頃に、池田市域では猪名川流域で最古の段階に属する前方後円墳である池田茶臼山古墳(五月丘1丁目)が築かれた。この池田茶臼山古墳は全長 59.5mで流紋岩を積み上げた竪穴式石室をもち、墳丘には葺石を貼り埴輪を巡らせている。 
これに引き続いて前期末には娯三堂古墳(綾羽2丁目)が築かれる。
同じ流紋岩の竪穴式石室をもつが、墳丘は径 27mの円墳で葺石・埴輪列がなく、池田茶臼山古墳に比べて相当見劣りがする。その後、中期(5世紀)にかけては、
池田市域では娯三堂古墳に続く首長墳と目される古墳が築かれない。
反対に豊中市域の 桜塚古墳群で武器を副葬した古墳が継続して築かれ、
池田市域では宮の前遺跡や豊島南遺跡で墳丘の低い小規模墳が築かれるだけなので、
桜塚古墳群の被葬者が百舌鳥古市古墳群を築造した政権をバックに猪名川流域の支配者として君臨し、
池田市域はこの支配下に置かれたものと考えられる。 
桜塚古墳群は後期になる前に衰退していき、後期になると6世紀前半に猪名川西岸側に勝福寺古墳(川西市)、続いて池田市に二子塚古墳(井口堂1丁目)が突如築かれる。
しかし、両者ともこれに続く古墳がみられず、池田市側では木部1号墳(木部町)、古江古墳(古江町)、善海1号墳(畑3丁目)、娯三堂南古墳(綾羽2丁目)といった径10~20m前後の円墳が単独で築かれ、猪名川西岸側では長尾山山麓にいくつかの群集墳が出現する。
そして6世紀末に池田市域に径 45mの円墳で巨大な石室をもつ鉢塚古墳(鉢塚2丁目)が築かれる。  
こうした古墳時代後期にみられる古墳の盛衰は猪名川流域だけの政治変動でなく、
中央政権の変動に連動したものとみなされている。
そして、突如として出現する鉢塚古墳の存在は、京都市太秦地方の石室と同じく天井がとくに高いという特徴をもつことから、中央政権の変動を経て6世紀末に秦氏の勢力がこの地に及んだことを示しているものと考えられている。

飛鳥時代


 律令制により国郡里(郷)制が敷かれるまでは、池田及びその周辺一帯は「猪名県」とよばれていた。
鉢塚古墳の存在やそれに続いて築かれた宇保猪名津彦神社古墳(宇保町)や後の史料から、
大化の改新(645 年) までは秦氏の支配下にあったものと考えられる。
大化の改新直後の池田はどうであったのか詳しい史料がなく不明であるが、
池田市域南半には条里地割がみられるので、
律令制による大規模な区画整理が行われたようである。

奈良時代


 池田市域は国郡里(郷)制によれば、摂津国豊嶋郡に含まれ、市域には北から秦上郷、秦下郷、豊嶋郷の3つの郷があった。史料によれば、「秦」「豊嶋(手嶋)」「倉」「時原」といった氏名うじなをもつ
氏族がいた。また、奈良時代の末頃には西大寺領の佐伯村が存在していたことが判明している。 

平安時代


 この時代の前半については史料があまりなく不明な点が多いが、
「出雲」「菅原」「佐伯」という氏名をもつ一族がいたようである。 
 11 世紀になると、呉庭荘という荘園ができる。この荘園は河内国土師の里(現在の藤井寺市あたり)出身の土師氏によって開発され、12 世紀前半には京の貴族である藤原氏の領地に、その後半には源氏を経て鳥羽上皇へ寄進された。この呉庭荘の中心地は宇保町から神田1丁目の台地上(北から禅城寺遺跡・宇保遺跡・神田北遺跡)と推定され、11~13 世紀頃の掘立柱建物群や条里に沿った溝、土器などが出土している。 
池田市域北部には 12 世紀中頃に摂関家近衛領の細川荘ができた。
なお、奈良時代に建立されたと思われる石積寺(畑5丁目)の痕跡に続き、平安時代には文献上でも禅城寺・呉庭寺の寺院の記録が残り、久安寺(伏尾町)は久安元年(1145)に再興されたと伝わっている。
市内の寺院には、市域最古とされる9世紀頃制作の久安寺の薬師如来立像、9世紀末から 10 世紀初め頃の永興寺(木部町) の十一面観音立像など、平安仏が多数残っている。
神社については豊嶋郡と川辺郡で、為那都比古神社・細川神社・伊居太神社などの 7座が延長5(927)の史料に記載されるなど、この時代、すでに豊かな古代の宗教文化が深まっていたことが推測される。 
また、今日まで伝わるクレハトリ・アヤハトリの伝承は、土師氏が呉庭荘を開発する頃にできたものと考えられている。この伝承は、『日本書紀』の記述を題材に、呉の国から池田へやって来たクレハトリ・アヤハトリの2人の女性が機織の技術を伝えたというもので、史実ではないものの、猪名川を遡って到着した「伝承唐船が淵」、糸を染めた「染そめ殿井」、星明かりで機を織った「星の宮」、絹を干した「絹掛きぬかけの松」など、市内に関連の史跡が多数あり、その完成度は極めて高い。 

鎌倉時代


 治承4年(1180)から始まる源平争乱のなか、「手(豊)嶋蔵人」「手(豊)嶋冠者」ら池田市域周辺に本拠を置く武士たちも争乱に加わり、また、後白河法皇の命による平家追討や源義経の討伐に「手(豊)嶋冠者」が活躍した。 
平安時代から続く呉庭荘は範囲も広がり、大きな勢力をもつようになった。この時代、武士の台頭により領主である貴族や寺社の荘園に対する支配力が弱まりはじめると、荘園内の名主(有力農民)が生産の向上とあいまって自立・独立化しはじめ、財力と武力をもつものが現れた。池田氏もそうした階層から出た一族と考えられている。池田氏はこの頃「藤原」の氏名を名乗っており、釈迦院 (鉢塚3丁目)や常福寺(神田3丁目)には 13 世紀末に池田氏の祖先と思われる藤原景正が建立した石造物が残されている。
また、地名として「池田」が使われるのもこの頃からと考えられる。 

南北朝時代・室町時代


 建武の新政後、延元元年(1336)に足利尊氏が室町幕府を開いてからおよそ 60 年間は南北両朝に分かれ、年号は両朝のものが使われた。天満宮(畑3丁目)燈籠や無二寺(古江町)宝篋印塔には北朝の年号が刻まれており、池田市域は北朝方の足利氏の影響下にあったことがわかる。 
 室町時代、各国の守護は警察権などのさまざまな権限が強化され、武士をしたがえて領地を支配しはじめた。これを守護大名という。14 世紀、池田が含まれる摂津の守護大名は幕府の有力者赤松氏で、
池田氏はその家臣になるまでに力をつけていた。 
 15 世紀になると、室町幕府の管領細川氏が摂津の守護大名にな り、池田氏の棟梁池田充政(池田筑後守充政=池田城主は代々「筑後守」を自称)はその有力家臣として成長、荘園侵略や高利貸しで莫大な財力を誇った。当時、地頭や荘園の名主などから力をつけて、今の市町村ほどの範囲を支配した人びとを国人と呼んでおり、池田氏も国人の階層にあたる。摂津国には池田氏のほか、伊丹氏、吹田氏、能勢氏、茨木氏、三宅氏などの国人がいた。彼らは守護大名の家臣となり、地域支配の拠点として城を構えた。
池田氏もこの頃に池田城を築いたのではないかと考えられる。 
 応仁元年(1467)、東軍の細川方、西軍の山名方に分かれて戦った応仁・文明の乱が起こる。
池田充政は細川方についたため、山名方の大内氏に攻められ、池田城は落城した。
大内氏は池田に留まら なかったため池田充政はすぐ池田城に入ることができたが、
今度は細川方内部の争いに巻き込まれる。
争いの発端は細川澄元と細川高国による細川家の家督争いであるが、やがて諸国の国人らを巻き込む戦乱へと拡大した。池田氏は澄元方についたため、永正5年(1508)、高国方に池田城を攻め入られ、池田正盛の裏切りで池田城は落城、当時の城主池田貞正(充政の子)は自害した。 
その後、池田城には裏切った池田正盛が高国方の武将として入ったが、永正 16 年(1519)、貞正の子信正(系図では久宗であるが信正と思われる)が池田城を奪回した。戦乱は細川高国と細川晴元の争い、そして細川氏綱を擁する三好長慶と細川晴元の争いへと移り、池田氏や伊丹氏ら摂津の国人らは争いに巻き込まれて敵味方に分かれ、主導権争いに翻弄される。このことが、池田氏や伊丹氏など京近郊の国人が大名へ成長できなかった要因ではないかと考えられている。 他方、摂津の有力国人に成長した池田氏のもと、歌人招月庵正広や、宗祇、宗長、牡丹花肖柏といった当代きっての連歌師が訪れ、池田氏の歌会や連歌会にたびたび参加し、近世に開花した池田文化の礎をつくった。とくに長享元年(1487)以降に池田に庵を結んで居住した肖柏は、周辺国人の能勢氏や伊丹氏とも交流し、摂津国で隆盛した地方文化の指導的役割を担った。宗祇や肖柏らによる『新撰菟玖波集』には池田一族の作品も収録されている。また、池田氏の拠点となった池田は、猪名川と五月山の間の狭隘地を出た奥郷の出入り口に位置し、古くから交通の要衝・物資の集散地でもあった。
天文 15 年(1546)の史料から、16 世紀半ば頃までには、池田に「市庭」(市場)があったこと、すなわち池田氏の池田城の町屋がすでに市場集落として成立していたと思われる。 鎌倉時代からこの室町時代にかけて、池田市域では真言宗のほか、池田氏の庇護のもと曹洞宗も宗勢を拡大した。加えて、浄土宗・浄土真宗・日蓮宗なども広がりをみせ、こうしたなか、本尊や涅槃図など、各寺院により多様な仏像・仏画が制作された。ほかにも、室町時代初期の建立とされる久安寺楼門の寺院建築や、室町時代前期と推測される五社神社鉢塚古墳石室の十三重塔(いずれも国重要文化財)・石仏といった石造文化財も残されている。天文 18 年(1549)、実権は三好長慶が握り、摂津の国人は長慶の配下に、長慶没後は三好三人衆の勢力下におかれた。 永禄 11 年(1568)、織田信長が京へ上洛、その勢いで三好氏勢力排除のため摂津へ攻め寄せると、ほとんどの国人が織田方に降伏した。しかし、池田氏は抵抗したため織田方の激しい攻撃を受け、町屋が火の海になるほどの激しい攻防の末に降伏した。そして、池田氏は織田方の家臣となって各地を転戦させられる。こうした状況のなか、池田氏内部で三好派の荒木村重らがクーデターを起こし、城主勝正を追放、その弟の知正を城主にして池田氏は荒木村重の支配下に組み込まれた。村重は最初、織田方の茨木城主茨木重親や高槻城主和田惟政を倒すなど織田信長と敵対していたが、突如信長の家臣になり、室町幕府が滅亡した天正元年(1573)摂津守に任じられて戦国大名に登りつめた。 

○ 近世(安土桃山時代・江戸時代) 

<安土桃山時代>


 摂津守となった荒木村重は、翌天正2年(1574)に伊丹氏を滅ぼした後に池田城を廃して伊丹城に入城、ここを有岡ありおか城として整備し、摂津支配の拠点にした。一方、城主であった池田知正は村重に従わず神田の館へ退いた。最終的に東西 330m、南北 550mほどの城域を有し、一部町屋なども取り込んだ総構えの初期形態をもっていたとも推定される池田城であったが、すでに天正3年(1575)には廃城となっていることが記録に残されている。 天正6年(1578)、村重は突如織田方と敵対していた本願寺と手を組み織田信長に反旗を翻す。信長は村重を討伐するため有岡城を包囲、1年間にわたる攻防の末に天正7年(1579)、有岡城は落城、村重は城を逃れた。 
 有岡城落城後、池田氏は知正の甥他紋丸が、信長方に焼き討ちされた八坂神社本殿を慶長 15 年(1610)に再建したが、他紋丸やその子孫がどうなったのかよくわかっていない。ただし、有岡城落城の時、池田和泉守が鉄砲で自害したという記録があるので、池田氏の一部は村重にしたがって有岡城に入ったようである。池田氏の菩提寺である大広寺には、池田知正と、知正の甥でのちに養子となった三九郎の墓碑が残る。 有岡城落城後、摂津国は織田信長家臣の池田恒興の領地になったが、豊臣秀吉政権になると摂津国の大部分は豊臣家直轄地になり、池田市域は秀吉家臣の青木一重、船越景直の領地になった。 

江戸時代


■在郷町池田村 
信長が京都の本能寺で倒れた後、秀吉が天正 18 年(1590)に全国統一を成し遂げた。その間、戦乱で焼かれた池田の町屋も復興していったものと思われる。 
徳川時代になった慶長 19 年(1614)、大坂冬の陣に出陣中の家康に、池田村の役人が陣中見舞いとして池田酒を献上し、その返礼として禁制を下付されたとされている。池田村ではこの禁制を「朱印状」として特権の拠り所とし、後々まで大きな影響を与えた。 
市域には、現在も、当時の大坂と能勢妙見山 みょうけんさんを結ぶ能勢街道をはじめ、京都と西国を結ぶ西国街道や池田と亀山(現亀岡)をつなぐ久安寺亀山道(余野街道)、箕面の勝尾寺から宝塚の中山寺 なかやまでらへの中山道(巡礼道 )、池田と尼崎を結ぶ尼崎伊丹道、西国街道から別れて有馬まで進む有馬道など、多くの旧街道が交差しているが、これらの大半は近世以前には開通していたと思われる。こうした諸街道の整備が進むと、後背地の能勢郡や川辺郡からも、大坂方面からも往復1日程度の中間点という地理的な条件から、物資の中継地として、池田村はさらに繁栄していった。 
元和7年(1621)までには馬借所、すなわち公的な人馬継立て場所に指定されている。また、俚謡に「山家やまがなれども 池田は名所 月に十二の市が立つ」とうたわれた十二斎市が、遅くとも寛永年間(1624~44)には営まれている。元禄 14 年(1701)刊行の『摂陽群談』には、「近里・隣郷の土民・百姓並に
商家・樵夫きこり等に至るまで市店に群がって、米穀・飲食・果蓏か ら・衣服・器物・諸材・柴・薪・炭・鳥獣の類までこれを売買し、益繁栄の市なり」と、多くの人びとで市が殷賑を極めている様子が紹介されている。 
池田村は北摂における物流の一大拠点となり、商工業者が集住する小都市的な集落、「在郷町」として成長した。その人口は、元禄期(1688~1704)には約 5,300 人と推測され、周辺の村々に比べると破格の大村であり、1村でありながら、正保年間(1644~48)から正徳3年(1713)にかけて5株に分割され、それぞれに庄屋らの村役人が置かれていた。 元禄 10 年(1697)の池田村絵図によると、1,437 戸もあり、その半数近い 641 戸に職名が記載され、農業以外の職に就いていた。一番多い職種は日用(日雇い)の 163 戸で、賃稼ぎとして、主に酒造や物資の輸送などに従事していたと思われる。次いで、118 戸の糸引いとひき、すなわち糸をつむぐ賃労働者が多い。
元禄期には、池田は繰綿・木綿の加工集散地としても名を上げており、「池田木綿」として高く評価され、特産物の一つとなっていた。木綿屋・綿引き・紺屋(染め物屋)・茜屋(同)など、関連すると思われる職も多数みられる。 池田村には、こうした近郷からの日雇い稼ぎの農民や、離農して専業化し外から集住した賃労働者らが絶えず流入し、在郷町の経済的活動を支えていたのである。 
次に多い職種として、酒屋 32 戸が続く。池田の酒造は戦国期から江戸時代初期にかけて始まったと推測されている。元禄 10 年(1697)には酒造米高1万 1,600 石余、江戸積2万 8,200駄余にのぼり、当時上方から江戸に送られた樽の1割近くを占めるまでになった。江戸では池田の酒は伊丹酒とともに銘酒として一、二を争う好評を得ていた。井原西鶴もその著書『西鶴織留』で、伊丹と池田の酒造りの様子を紹介している。 このほか、村絵図には炭関係の職業も多数みられる。池田は炭の集散地としても知られ、とくに「池田炭」はその切り口が菊の花びらのように美しいので「菊炭きくずみ」ともよばれ、今日でも茶の世界では最上の炭として珍重されている。奥郷の川辺郡や能勢郡で生産されていたが、池田で集散されたので池田炭とよばれた。元禄の頃にはすでに全国で盛名を馳せ、また、多数の書物に池田炭のことが紹介されている。 
在郷町池田では、こうして集積した豊かな経済力を背景に、酒造家や問屋商人などの旦那衆たちが、俳諧・和歌・漢詩文・絵画などに雅懐をよせ文化的素地を高めていった。例えば、酒造家の生まれで、『俳諧呉服絹』を出版した俳人阪上稲丸いなまる(1654~1736)や、医師を家業としながら中国の歴史書を著した漢学者清地以立(1663~1734)らの存在が挙げられる。 
また、このような豊かで文雅な土地柄に惹ひかれ、来遊や来往した文人も多かった。将軍綱吉の御前講義を勤めた儒学者・田中桐江(1668~1742)をはじめ、画家で四条派の祖・呉春(松村月溪、1752~1811)、
幕末の勤皇儒学者であった広瀬旭荘(1807~63)らがその代表的な人たちである。 
 儒学者として名高い田中桐江が、池田に来住したのは享保9年(1724)であった。彼は漢詩文の結社「呉江社」を設立し、多くの好学の士を集め育て、池田文化を大きく進展させた。とくにその門下となった大坂の思想家富永仲基(1715~46)、またその実弟で池田荒木家の養子になった漢詩人の蘭皐(1717~
67)、そしてその子李谿(1736~1807)に至り、池田文化と呼ぶにふさわしい豊かな文化が花開いた。
李谿は大坂の漢詩文結社混沌社や懐徳堂などとも交流し、池田と大坂を文化的に結ぶ役割も担っていた。
与謝蕪村門下の俳人である京都の川田田福(1721~93)は池田に出店を構え、池田の俳人山川星府(1761~1824)や井関左言(1759~1819)といった文人を蕪村に引き合わせ、文化の橋渡しの役を果たしたが、江戸時代後期を代表する画家のひとり、松村月溪を京都から池田に迎えたのも田福である。 天明元年(1781)に移り住んだ月溪は、翌年呉春と改名し、寛政元年(1789)に池田を離れるまでの間、数々の名品を残し、また、酒造家葛野宜春斎(1771~1819)や呉服神社神官馬場仲文(不詳~1830)らが師事している。 
さらに呉春は池田の文人との交友を深め、句会を通して、井関左言ら在地の俳人にも多くの影響を与えた。また「一菜会」というグルメの会も始めるなど、絵画以外にも多くの文化を醸成させた。こうした様々な内外の交流による相乗は、例えば、石田梅岩による心学(一種の道徳的な庶民教学)に傾倒し、文化9年(1812)に「立教舎」という心学講舎を設けて庶民の教化に努めた薬屋の黒松光仲(1749~1821)、当時池田の最大の酒造家大和屋の当主で多数の考証学の書を著した国学者山川正宣(1790~1863)らのほか、俳諧では津田道意(1605~96)・井上遅春ち(1780?~1821)・ 釈瓜坊(1789~1829)・松下一扇(1794~1830)・阪上呉老(不詳~1834)・稲束三化(不詳~1857)、和歌では平間長雅(1635~1710)・稲束太忠(1710~1805)、また、史学では釈日初(1701~70)、絵画では桃田伊信(不詳~1765)、漢学者では林田林叟(1822~1901)、書家では荒木梅閭(1748~1817)など、多くの在地・来遊の文人とその活動を生み育み、池田文化をより厚いものとした。 
このほか、現在も毎夏に行われる「がんがら火」と呼ばれる愛宕火の祭礼の起源は、正保元年(1644)に遡るとされる。信仰・文化・伝統をつくり守り伝えていくという、在郷町池田の庶民による活動力の高さを示すものと言えよう。さらには、古来、豊島郡北部は別荘の設置にふさわしい地とみなされていたとも推測される事例があるが、江戸時代には在郷町池田の富農が別荘での風流を楽しみ、自然と風景を享受している史実がうかがわれ、後の田園都市池田の生活スタイルへと繋がる下地もつくられるなど、
その文化やスタイルと、それらの活動の担い手は、さまざまな拡がりと高まりをみせた。 

■市域の村々 
池田市域には、この在郷町池田村のほかに二十数か村の農村集落があった。その多くは池田村と同様、中世にその淵源が求められ、細河郷6か村のようなそれぞれの地域的なつながりは、現在の池田のまちにも大なり小なりみることができる。各村の規模は、20~50 戸ほどが多く、10 戸を割る小さな村落もあり、100 戸を超えるのは畑村・神田村の2村のみで、全体に小規模な村が多かった。 市域村々の所領は、池田村も含め、幕府領・旗本領・大名領・公家領が入り交じり、さらに時期によっても異なるなど、非常に複雑であった。例えば池田村は、基本的に幕府領であったが、一時、板倉重宗、柳沢吉保、高崎藩松平輝貞の所領だった時期もあり、さらには、幕府領と近衛家領もしくは九条家領などに分かれていた時期もあった。一方、隣接する神田村は、幕府領、仙洞領と続いたのち、一部は忍藩阿部領、幕府領、一橋領と変わり、残りの一部は旗本船越領として続くなど、池田村と全く異なっていた。こうした入り組んだ支配は、畿内における所領配置の特徴であり、幕府にとって重要な拠点である大坂近辺において、大藩などによる一極集中を防ぐためであった。 
江戸時代初期より、市域の半分以上を占めたのが麻田藩の青木氏である。同藩は、麻田村(現豊中市 蛍 池)に陣屋を置き、寛文2年(1662)以降、摂津国豊島郡と川辺郡、備中国に所領を有した1万石余の外様大名で、石橋村・畑村など、市域では主に南部~中部の村々をおさめていた。二代藩主重兼は、中国の禅宗の僧隠元に帰依、畑村に建立した松隣寺を仏日寺と改称して万治2年(1659)に開山した。さらに、重兼は三田の方広寺や東京の瑞聖寺を建立するなど日本での黄檗宗創設に大きな役割を果たした。仏日寺の墓所には、麻田藩主累代の墓が整然と並んでいる。 基本的に幕府領であった市域北部の細郷(現細河)と呼ばれる地域は、山間にあって猪名川と余野川の両岸に木部・東山などの6か村の村々が集まっており、中世より地域的にもまとまっていた。ここは植木の産地として今も有名である。その起源は明らかでないが、戦国時代半ばの天文年間(1532~55)とも、17 世紀中頃の正保年間(1644~48)から始まったともいわれている。とくに牡丹の接木法を生み出してから飛躍的に発展、大坂市中などにも出荷し、『摂津誌』に「細川谷出、名品多類」と記されているように、享保期(1716~36)には名品と多種多目品を生産して評判を得ている。江戸時代後期には、全国各地に大量に出荷され、例えば木部村の下村家は、文化2年(1805)には九州大村藩領に 楮苗 23 万本を送っている。 
これら、幕府領や麻田藩領以外に、市域に一定期間あった所領として、武蔵国忍藩阿部氏(神田村一部)、旗本船越氏(西市場村など)、旗本渡邊氏(尊鉢そんぱち
村)らの所領などがあった。しかし近世後期には、こうした幕府領・私領を超えた広域・横断的な動きも多くみられた。例えば、文政6年(1823)の幕府による菜種・綿実販売に対する統制に反対し、最終的に摂河 1,300 か村以上が幕府領・私領を問わず広域で連合して反対訴願を展開した。このときの惣代 46 人の中には、才田村や渋谷村の庄屋が名前を連ね
ている。幕末の安政元年(1854)から翌年にかけてと、慶応元年(1865)にも摂河 1,000 か村を超す広域の運動が行われているが、このときも野村庄屋や、畑村出身者が領分惣代に選ばれている。 また、寛政元年(1789)以降、東市場村の富農岸上家から長兄忠太夫と次兄治左衛門がたびたび麻田藩に登用され、財政面や政治面で活躍。末弟の小右衛門(=石田敬起、1784~1860)は、岸和田・尼崎 ・富山・新見など 10 以上の領主や西本願寺などの財政改革に請われて手腕を発揮し、弘化2年(1845)、出生地の麻田藩でも息子門蔵と協力して一定の成果を上げている。 
このように、在郷町池田村のみならず、市域の農村集落でも、広域かつ身分を超えたさまざまな新しい活動が生まれていたことは特筆すべきであろう。 
 
■幕藩体制の動揺から幕末へ 
江戸時代の後半、商品流通の構造も大きく変貌していくなか、在郷町池田村は、朱印状に代表されるような既得権益への固執によって、旧態依然とした問屋の存続や、猪名川を利用した通船の未開通などといった事態を招き、経済活動の競争力が次第に削がれていった。全国に名を馳せた池田酒も、海上輸送に有利な立地で技術改良も果たした灘などの新興酒造地の台頭に押され、近世後期から幕末にかけて、次第に停滞に向かう。安永5年(1776)に特権の拠り所としてきた朱印状が没収されたのはその象徴的な出来事であった。 また、18 世紀半ば以降、全国各地で百姓一揆や打ちこわしなどが増加し、社会不安も徐々に高まり、幕藩体制が少しずつ揺らぎ始めた。天保2年(1831)には、池田村をはじめ、市域の村々でもお蔭踊りが流行し、領主の禁令を無視して、数か月にわたって踊りを繰り返した。天満宮(畑3丁目)には現在もこのときに寄進された狛犬一対が残っている。天保4年(1833)から凶作が続き、全国的な飢饉となったが、この天保飢饉では市域村々でも困窮者が続出し、救済措置がとられる事態になっている。 この飢饉を受けて、天保8年(1837)には大坂で大塩の乱が起きた。乱そのものは1日で終わったが、その影響は大きく、誘発された山田屋大助が、能勢を舞台に「徳政大塩味方」などと書いたのぼりを立てて一揆を起こした 
(能勢騒動)。このとき、大坂町奉行所の与力らが池田村に出張り、池田村からも数十人以上の人足が徴発された。鎮圧後、連行された騒動参加者が村中を通る際にはおびただしい見物人がいたという。 幕末になると、開国・内乱の激動に、市域の村々はさらに巻き込まれていく。安政元年(1854)のプチャーチン率いるロシア船来航の際には、麻田藩も幕府の命によって大坂天保山の警固に就き、市域の藩領村々からも多数が動員されている。その後も、泉州の海岸警備などに割り当てられて領民が人足として動員された。慶応元年(1865)の第二次長州征伐では、幕府領から兵糧運送などのための人夫が徴
発されている。慶応2年(1866)には、池田村で打ちこわしが起きた。戊辰戦争が始まった慶応4年(1868)、
麻田藩は泉州の海岸警備を解いて京都警護に就いた。このときの命は明治新政府によるものであった。

○ 近代(明治・大正・昭和終戦)


慶応4年(1868)、江戸の徳川幕府が倒れ、明治新政府が誕生すると、次々と大きな改革が進められた。当時の池田市域には二十数か村があったが、その支配関係と行政区画はめまぐるしく変遷し、一部の村々は一時兵庫県に編入されていた時期もあった。明治4年(1871)7月には廃藩置県により麻田藩が解体された。11 月になって、市域の村々はすべて大阪府の管轄下に入り、江戸時代から続く入り組んだ支配が解消された。その後、大区小区制や郡区町村制などの行政区分けが導入されるが、明治 22 年(1889)の市制・町村制によって、市域は、池田町・細河
村・秦野村・北豊島村の1町3村に集約された。当時の人口は、池田町が 5,993 人、細河村 1,905 人、秦野村 1,395 人、北豊島村 2,018 人、全体で約1万 1300 人であった。 
この時代には、さまざまな制度が実施され、また新しい公共機関などの施設も設けられていった。明治4年(1871)に郵便制度が始まった。東京以西でこの年に開設された郵便局は 180 局のみであったが、
そのうちの一つが池田村に置かれた。 
また、明治7年(1874)、警察出張所(現池田警察署)も置かれている。明治 12 年(1879)に豊島郡役所が池田村に開庁、のち豊島郡と能勢郡の連合郡役所となり、さらに明治 29 年(1896)には豊島郡
と能勢郡の合併によって、豊能郡役所となった。 明治 21 年(1888)には、中之島治安裁判所池田出張所(現大阪池田簡易裁判所の前身)も設けられている。これらの施設の多くは、能勢街道に沿った旧来の池田村中心部付近に設けられ、新しい都市的な核が形成されていった。 近代教育制度の確立は明5年(1872)の学制公布から始まった。明治6年(1873)4月には豊島郡第一区第一番小学校(現市立池田小学校)が池田村に創設された。翌年の開校式には大阪府知事も臨席、記念して自筆した「登龍門」の碑が今も同校の校庭に建っている。 
市域では明治7~8年(1874~75)に、豊島郡第二区第三番小学校(現市立北豊島小学校)・豊島郡第一区第四番小学校(旧市立細河小学校)・豊島郡第一
区第八番小学校(現市立秦野小学校)も順次創設された。 
明治 36 年(1903)には大阪府立池田中学校が池田町に開校した。その敷地の半分以上は地元の寄付によるものであった。わずか3年で廃校となったが、明治 41 年(1908)、熱心な誘致運動が実って、この場所に大阪府池田師範学校(現大阪教育大学)が開校した。その後、昭和8年(1933)に移転問題が表面化すると、翌年にかけて全町をあげて反対運動を展開、池田町による新たな敷地買収などの多大な協力もあって、移転阻止を実現させている。また池田町は、明治 42 年(1909)来、池田師範学校附属小学校(現大阪教育大学附属池田小学校)の代用クラス、
のちには代用校を提供していたが、大正8年(1919)にはその敷地建物の大阪府へ譲り、ここに池田師範学校の専属附属小学校が独立開校した。
大正期には、さらに実業学校や女子中等教育機関などが次々と設立された。豊能郡立農林学校(現大阪府立園芸高等学校)が大正4年(1915)に開校した。大正6年(1917)に池田女子手芸学校(現大阪
府立渋谷高等学校)、大正 10 年(1921)には私立宣真高等女学校(現宣真高等学校)と北豊島村立女子
実業補修学校が開校するなど、地域の熱意と要望にも支えられて、教育施設はさらに充実した。屋外保育を掲げた家なき幼稚園(現室町幼稚園)が室町に開園したのも大正 11 年(1922)のことである。
昭和に入っても、元満州国初代総務長官駒井徳三による、大陸での指導的人材の育成を目的とした興亜時習社(昭和 14 年<1939>)、阪神急行電鉄株式会社(現阪急電鉄株式会社)による池田商業専修学校(昭和 15 年<1940>)、大阪市から移転改称した大阪府立池田中学校(昭和 16 年<1941>、現大阪府立池田高等学校)など、新たな教育機関の開設が続いている。 経済活動も暫時変化があらわれた。池田の経済を支えた、炭や青物などをはじめとする物資の集散・物流は、市場機能をもった近隣町村の成長で、次第にその地位を低下させた。池田を代表する産業であった酒造業も、江戸時代後期から維新期にかけてさらに力を落とした。その一方で、繊維業や貨物業、印刷業などといった、新たな産業や企業が生まれている。さらに商工業の展開が進むにつれ、銀行も開設された。明治 27 年(1894)の西宮銀行池田支店の開設に続いて、翌 28 年(1895)には酒造資本から金融資本への動きなどを背景に、地元資本による摂池銀行が池田町に創設。その後も加島銀行池田支店と加島貯蓄銀行出張店などが次々に開設され、明治 45 年(1912)、地元有志による二つ目の銀行、池田実業銀行が創設されている。大正期に池田町に建てられた加島銀行池田支店の建物(現河村商店)と、池田実業銀行の建物(現いけだピアまるセンター)は、現在国の登録有形文化財となっている。明治の末、その後の池田を大きく変える出来事があった。鉄道の開通である。もともと、明治 25 年(1892)に摂津鉄道が、猪名川対岸の小戸(現兵庫県川西市)の池田停車場(池田駅)まで開通。明治30 年(1897)にはこの摂津鉄道を買収した阪鶴はんかく鉄道が、池田駅を川西村寺畑てらはた(現兵庫県川西市)に移転、宝塚へ延伸して開業した。しかしながら、いずれも池田市域は通っておらず、物流に影響があったとは
いえ、まちの有り様まで大きく変えるには至っていなかった。ちなみに同駅は、川西市域にありながら
「池田駅」の名称がその後も使われ、現在の「川西池田駅」(JR福知山線)と改称されたのは戦後のこ
とである。 明治 43 年(1910)、箕面有馬電気軌道株式会社(現阪急電鉄株式会社)の梅田-宝塚間と石橋-箕面間が営業を開始し、池田市域に、池田・石橋の2駅が置かれた。同社は池田駅西南一帯に住宅地を造成し、主にサラリーマンを対象とした 10 か年の月賦という当時としては画期的な販売方法を導入した。現在の室町住宅である。これらは小林一三(1873~1957)の企画構想によるものであり、わが国最初の電鉄会社による本格的な郊外分譲住宅地であった。同時に、住民の交流を目的とした倶楽部を設置、生活用品の購買組合を設けるなど、地域コミュニティの創設も図った。この室町住宅開発に誘発されて、市域では新たな資本による住宅開発が続く。満寿美住宅地が大正7年(1918)に、石橋荘園住宅が大正 13 年(1924)に販売が開始されている。昭和7年(1932)には阪神急行電鉄株式会社(阪急電鉄株式会社)による石橋温室村が現在の鉢塚に開発された。これは大阪都市部での花の需要増大を見込んで集団経営による温室生産を目論んだ住宅地であった。昭和 12 年(1937)には、呉羽の里住宅が現在の旭丘につくられている。相次ぐ住宅地の出現、新しい様式の住まいと生活スタイル、サラリーマン層などの外からの居住者、新たな産業の創出など、まちの有り様が少しずつ変わり始めることになった。 この流れを決定づけたのが、昭和 10 年(1935)の府道大阪-池田線(通称産業道路、現国道 176 号)の市域開通であった。交通や池田駅への利便性、広大な用地の確保のしやすさなどから、公共施設をはじめとする市街地の中心の、南への移動がさらに促進された。また、物流の変化によって、物資集散の中継地としての性格を失うことになり、池田は大阪の衛星都市、住宅都市へと大きく変容していった。
この年、池田町、細河・秦野・北豊島3か村が合併し、池田町となった。 
新たな池田町の役場は、それまでの場所から南下して現市庁舎の場所に置かれた。そのすぐ横手には、池田出身の実業家田村駒治郎(1866~1931)の寄付によって同年に建てられた池田公会堂が威容を誇っていた。田村は、ビリケンの商標で有名な神田屋田村駒商店(現田村駒株式会社)の創業者である。市立歴史民俗資料館には、当時の公会堂に設置されていた彼の胸像を写したものが収められている。 
4年後の昭和 14 年(1939)、府内6番目の市として市制が施行され、人口 35,000 余人を擁する池田市が誕生した。この年、市域一部を含む伊丹飛 行場(現大阪国際空港)が開港。また、発動機製造株式会社(現ダイハツ工業株式会社)の池田工場が操業を開始した。昭和 16 年(1941)に大阪工業試験所池田分所(現国立研究開発法人産業技術総合研究所関西センター)と、東京第一陸軍造兵廠第二製造所池田工場が、昭和 17 年(1942)に大阪府地方事務所が、昭和 19 年(1944)には豊能税務署が開設されるなど、池田市は官公庁などが集中する北摂の中心地であった。 
近世に花開いた池田文化は、かたちをかえながらも引き継がれた。今、近世に池田で活躍した文人を体系的に知ることが出来るのは、重建懐徳堂を支えた漢学者の吉田鋭雄(1879~1948)と、蔵幅家としても知られた旧家出身の稲束猛(1889~1927)の研究によるところが大きい。また、
政治家・実業家であった原田長治(1883~1946)は、来住した池田で創業した印刷業を通して、吉田・稲束らの研究などを出版、池田文化の振興を図った。 
実業家であり、文化的な造詣も深かった小林一三が池田に住んだのは、箕面有馬電気軌道株式会社開
業前年の明治 42 年(1909)である。彼が開いた郊外住宅地室町には、大阪毎日新聞記者で池田家なき幼稚園の創始者橋詰良一(1871~1934)、画家の須磨対水(1868~1955)、木谷千種(1895~1947)古家新(1897~1977)、写真家小川月 舟(1891~1967)、建築家葛野壮一郎(1880~1944)、「鳩ぽっぽ」などの唱歌で知られる作詞家東くめ(1877~1969)、小説家岩野泡鳴(1873~1920)、数学者小倉金之助(1885~1962)など、多くの知識人らが移り住んだ。こうした新しい外来の人びとと在来の旧家の文化が融合し、池田文化は新たな拡がりをみせた。 
近代池田は、新聞や雑誌の発刊などの出版も盛んだった。池田における最初の新聞『明治新聞』が創刊されたのは明治 34 年(1901)と推測される。その後、『浪北新聞』(明治 38 年<1905>創刊)、社会主義的な主張の色濃い『縦横新報』(明治 40 年<1907>創刊)などに続き、大正に入っても、原田長治の『太陽新聞』を皮切りに、『敷島新聞』、『東陽新聞』などの新聞が相次いで創刊された。また、『婦女世界』(大正7年<1918>創刊)、『婦女の友』(大正 10 年<1921>創刊)などの女性誌や、多数の雑誌や出版物も池田から誕生した。 昭和 12 年(1937)に日中戦争が始まった。戦火の拡大に伴って市民からの出征兵士や戦死者も多数出るようになった。昭和 16 年(1941)には、太平洋戦争が始まり、戦局が激化するにつれ、出征兵士と戦死者は一気に増加し、さらに市 民や学生も巻き込んでいった。昭和 19 年(1944)9月には大阪市立神津国民学校(現大阪市立神津小学校)の児童約 250 名らが池田に集団疎開してきた。自性院ほか6寺院などに分宿していたが、昭和 20 年(1945)3月から池田市にも空襲が及び、5月には現能勢町の田尻村に再疎開している。 また、昭和 20 年(1945)2月頃から、細河の中川原町から東山町にかけての五月山山麓に、海軍設営隊によって横穴の魚雷格納庫が造られた。徴用労働者のほか、大阪府立池田中学校(現大阪府立池田高等学校)生をはじめとする学生も多数動員されている。近接の細河国民学校(旧市立細河小学校)に海軍の魚雷調整班が駐屯し、学校を宿舎にしながら航空魚雷を調整、伊丹飛行場からの出撃に備えていた。終戦間際には空襲時の延焼防止のため、市街地の一部で建物疎
開とよばれる強制的な家屋取り壊しもおこなわれた。今の桜通りは、そのときに拡幅された通りの一つである。 終戦までの市内の空襲は、8月にかけて全部で9回を数え、死者 17 人、全半焼・全半壊約 120 戸、罹災者約 340 人に及び、大阪府立池田中学校(現大阪府立池田高等学校)の校舎なども炎上した。十二神社(豊島南1丁目)には防空壕が今でも残っている。
この間、池田市出身の戦死者は 600 名を超し、その 7 割近くは昭和 19、20 年(1944、45)に戦死したと推定されている。 

○ 現代(昭和戦後・平成時代)


戦後、池田市は壊滅的な被害を免れたとはいえ、極度の食糧難や経済の荒廃など、極めて困難な状況
から復興を目指した。地元の中小業者を支えるべく、小林一三の後押しで昭和 26 年(1951)、戦後全国
で5番目の地方銀行として株式会社池田銀行(現株式会社池田泉州銀行)が設立。昭和 27 年(1952)
にも地元資本によって北摂信用組合が設立された。物資の安定供給が一大課題であったこの時代、商人
の熱意によって新しく出来た市場や旧来の商店街などは、近隣からも多くの人を集め、昭和 30 年(1955)前後にかけては、かつての商都を思わせる賑わいをみせるまでになった。 
住宅不足に対応するため、昭和 24 年(1949)の大阪府による池田団地にはじまり、池田市も市営住
宅を順次建設した。昭和 30 年代に入るとそれらに加えて大阪府住宅協会(現大阪府住宅供給公社)団
地も次々につくられた。昭和 33 年(1958)、市内で初めて日本住宅公団(現独立行政法人都市再生機構) による 434 戸の池田団地が完成。翌 34 年(1959)に 1,577 戸の五月ヶ丘団地、37 年(1962)には 1,130 戸の緑ヶ丘団地と、同公団の大型団地が誕生した。昭和 47 年(1972)には新たに開発された伏尾台住宅地の入居も始まっている。 こうした大規模な住宅開発などにより、昭和 35 年(1960)に6
万人に満たなかった人口は、昭和 40 年(1965)には8万2千人を超え、わずか5年で4割近くも急増し、昭和 50 年(1975)には人口 10 万人を突破した。 
住宅地の増大と、団地という新しい住宅様式、通勤するサラリーマンという生活スタイルの定着は、
戦前からの郊外住宅都市としての池田の性格を決定づけた。こうしたなか、池田から画期的な食品が誕
生した。安藤百福(1910~2007)によるインスタントラーメンである。新しい生活スタイルのなかでの
家事の合理化といった時代の要求にみごとに応え、昭和 33 年(1958)の発売開始とともに大ヒットと
なり、その後の日本の食文化のみならず、世界の食文化にも多大な影響を与えている。 
昭和 36 年(1961)、理研光学工業株式会社(現株式会社リコー)大阪工場と、ダイハツ工業株式会社
池田第二工場が竣工した。戦後一時、商いのまちとしても賑わいをみせていた商業が、近隣市との競争
や商業圏の変化などで相対的に伸び悩むなか、工業都市としての面も強めていく。大阪工業技術試験所
(旧大阪工業試験所・現国立研究開発法人産業技術総合研究所関西センター)の先駆的な電気自動車の
開発、昭和 56 年(1981)の株式会社リコーの電子技術開発センター竣工による半導体製造の開始など、
新しい技術と製品が次々に池田から生み出された。 
日本万国博覧会の関連事業として進められた中国縦貫自動車道(中国自動車道)・府道大阪中央環状線・国道 176 号バイパス、及び国道 171 号バイパス等が昭和 45 年(1970)に完成し、池田市南部の道路網が飛躍的に整備され、交通の要衝としての役割を担い続けている。さらに阪急池田駅の高架化と、駅周辺の再開発も昭和 62 年(1987)までに完了し、池田の新しいイメージを作りあげた。 
他方、工場建設や宅地化、道路の新設などにより、比較的農地が広がっていた市内の風景は、この頃までに一変し、第一次産業の従事者は激減した。細河の植木は戦時中に強制的に作付け転換が行われ、戦後は壊滅状態にあったが、復興期を経て、高度経済成長期には植木需要の増大で活況を呈し、植木四大産地の一つとも並び称された。しかし、その後は、需要の後退や大規模生産地の新興などで低迷している。かつて全国的な隆盛を誇った酒造業も昭和 50 年(1975)以降は2蔵までに減少した。また、戦前には観光馬車まで走り、盛んに宣伝された畑の梅林や、同じく畑で多く生産された晩生おくての池田みかんも、戦時から戦後にかけて消えている。今、わずかに残された池田みかんの木から、再び池田みかん復活の試みがなされている。 近世より脈々と続く、教育と文化のまちの伝統は、新しい文化と融合しながら、さらに展開した。池田市教職員組合出身の荒木正三郎(1906~1969)が日本教職員組合の初代委員長となったのは昭和 22年(1947)のことである。戦後の新教育創造を目指した動きも活発であった。昭和 25 年(1950)には市立池田小学校で生活学習の全国発表大会を行うなど、その活動は大きな反響を呼んだ。 
戦前より隆盛した歌や俳句においては、関西アララギ会を結成した歌人大村呉楼(1895~1966)、俳誌『早春』を創刊した俳人神田南畝(1892~1983)、俳誌『 筧かけひ』の俳人藤田露紅、近代俳句の創始者日野草城(1901~56)らが池田で活躍している。絵画では、洋画家鍋井克之(1888~1969)を中心に池田市美術協会が発足、池田市美術展が継続して行われている。さらに、パリを拠点に国際的に活躍した画家吉田堅治(1924~2009)も池田から輩出している。 
また、市民有志によって、昭和 32 年(1957)、五月ヶ丘団地建設予定地内の池田茶臼山古墳の保存を
実現させ、昭和 43 年(1968)から翌年にかけては池田城跡の保存運動が行われていることも特筆され
る。 昭和 40 年(1965)にオーストラリアのローンセストン市と姉妹都市提携を結び、昭和 56 年(1981)には中国の蘇州市と友好都市を締結するなど、国際交流も進められている。提携 25 周年目の平
成 2 年(1990)来、ローンセストン市からウォンバットがたびたび寄贈され、今も五月山動物園でその姿をみることができる。 平成 12 年(2000)、旧池田実業銀行だった大正期の建物は、「いけだピアまるセンター」の名称で、起業家らの育成室として活用がはじまった。平成 19 年(2007)、能勢街道の一部である本町通りが整備された。江戸時代には酒屋や問屋が立ち並び、明治に入ってからも多くの商店や金融業、公共機関などが集まり、戦後も商店街を形成したかつての池田の中心通りである。ここに平成 22 年(2010)、往年、猪名川沿いにあった大衆演劇の芝居小屋「呉服座」(建物は愛知県犬山市の博物館明治村に「くれはざ」の名称で移築・国重要文化財。「ごふくざ」とも広く呼ばれる)が、「池田呉服座」として新たに復活した。古いものと新しいものを融合させながら、事始めのまちとして、より良い教育・文化・住宅都市を目指す努力が続けられている。 


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久賀田 康太/くがた こうた
株式会社KN不動産 代表取締役
関西大学 法学部卒
宅地建物取引士
某警備会社で勤務後
大手不動産仲介会社に転職。
居住用~収益、農地等
あらゆる取引を経験後、独立。
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