箕面市の歴史
目次:【箕面の古代】
- 古墳の空白地帯
- 古墳の空白地帯
- 近都牧-豊島牧
- 修験道の創始者役行者
- 箕面寺(瀧安寺)の草創と沿革
- 弥勒寺(勝尾寺)の草創と沿革
- 聖の住処-箕面よ勝尾よ
- 教信・証如-口誦念仏の創始
- 行巡-清和天皇の巡幸
- 千観-箕面の尊き聖
- 瀧安寺の聖天堂-聖天宮西江寺
- 為那都比古神社二座-延喜式内社小社
- 阿比太神社-延喜式内社大社
- 箕面の中世
- 勝尾寺の町石塔婆
- 光明天皇の七重石塔
- 法然の勝尾寺滞在
- 元弘三年瀬川合戦
- 建武三年豊島河原合戦
- 箕面の国人たち
- 信長の能勢進攻
- 箕面の近世
- 箕面の富籤
- 近世領主支配
- 麻田支藩の代官所と郷倉
- 新稲村の開拓
- 萱野三平の物語
- 萱野三平の墓
- 西国三十三個所巡礼
- 瀬川半町立会駅
- 頼山陽の来遊
- 役行者千百年遠忌
- 箕面の近代
- 電車と動物園
- 箕面観光ホテルと箕面温泉
- 財界人クラブ松風閣
- 野口英世の来遊
- 明治の森箕面国定公園
- 箕面市の成立
箕面の古代
縄文の天国・弥生の地獄
箕面平野は有馬高槻構造線の地溝帯で、南北の山地に挟まれた谷筋である。
しかも、西へ流れる猪名川水系と、東へ流れる安威川水系との分水嶺地域である。
このため、北の北摂山地と南の千里丘陵から雨水に削られて運ばれて来た土砂が堆積した土地である。
石ころだらけで保水力がなく農地としては決して適地ではなかった。
このために、箕面には縄文遺跡は瀬川遺跡、稲遺跡、白島遺跡など幾つもあって、縄文遺跡の少ない関西では例外的な地域となっているが、これに反して弥生遺跡は池之内遺跡ただ一つと云ってよい。
縄文遺跡が多いのは、狩猟と採取を主な生活とした縄文人が、
小高い山麓部の疎林の、日当たりがよく近くに水の便もある所を、
生活の適地としたためと思われる。
弥生遺跡が乏しいのは、水田農作を主な生活の手段とする弥生人たちには、この上ない不適地であったことによる。保水力のない砂礫地で地味が悪く、しかも、上流部であるために河川も水量が少ないためである。かくて、弥生人たちは、水が豊富で、かつ、土質が細かい粘土層の、
大河川の下流の沖積部を好んで選び、そこに、弥生の大集落が作られることになり、
やがて、それが古代の「クニ」へと発展する。そして、上流域はそのクニの辺境となる。
猪名川流域には為奈国が、安威川流域には三島国が生まれ、箕面地域はそれらの国の辺境となった。
古墳の空白地帯
新稲古墳
箕面市に隣接する池田・豊中市や、茨木・高槻市には数多くの大古墳がある。
古墳時代、池田・豊中辺りは為那国であり、茨木・高槻辺りは三島国であったので、
それぞれに大古墳が作られたものである。しかし、その中間の箕面は2つの国の国境地帯であり辺境であったために、極端に古墳が乏しい。
新稲から桜ヶ丘にかけての地域に、桜ヶ丘古墳群(あるいは新稲古墳群、奈伊良野古墳群)と呼ばれる幾つかの小規模な後期古墳(横穴式石室の円墳)があったに過ぎない。
しかも、それらは現在殆どが消滅してしまい、唯一残っているのが、
新稲古墳(新稲2丁目)と稲荷社古墳(桜2丁目)である。
しかし、稲荷社古墳は石室が正丸稲荷と云う名の稲荷社の神殿になっている。
桜ヶ丘2丁目には、明治初期に英国人のゴーランドと云う人が調査して、「桜村のドルメン」と名付けた桜古墳と云う古墳があり、彼の報告書は大英博物館に保存されているが、現地には何も残っていない。
桜ケ丘3丁目にあった中尾塚古墳は住宅の庭に石が残存するのみであり、新稲6丁目にあった髪切塚古墳も消滅して跡地が児童公園になっている。
これらの古墳は、6世紀にこの辺りに大きな勢力を持っていた秦氏の一族のものとされている。秦氏は古代に半島から我が国にやって来た渡来系の人たちのうち、弓月の君(融通王)の末裔であると称している一族である。池田市域になるが、新稲の西隣には「畑」と云う地名がある。
これは彼ら自らの名である。
古墳の空白地帯
王朝時代、朝廷は都から全国に至る官道を作った。
都から西国へ伸びる山陽道は、北摂山地と千里丘陵の間の回廊地帯である箕面市域を東西に貫いた。
こうした官道には30里(16km)毎に駅うまやが置かれた。駅は駅馬を常備して、緊急の官人の旅用に馬と食糧を提供するものである。(急を要しない使者の用には、各郡家に置かれた伝馬が用いられた)
摂津国内には次の5つの駅が置かれた。
大原駅(嶋上郡:高槻市)、殖村うえむら駅(嶋下郡:茨木市)、草野すすきの駅(豊島郡:箕面市)、葦屋駅(菟原うはら郡:芦屋市)、須磨駅(八部やたべ郡:神戸市)
これらのうち、草野駅が現在の萱野の辺りに置かれたもので、13疋の駅馬を常備する定めとなっていた。
京を出発して西へ向かう旅人は、嶋下郡を経て更に西へ進むと、道はようやく山間に入り、両側から木々の繁る山地が張り出し、道は緩い上り坂となってゆく、上り詰めて峠を越すと、再び山地は左右に遠ざかり野が開けてゆく。そこに草野の駅があった。しかし、このような官による駅家は10世紀以降急速に衰えて、鎌倉時代に入ると、私人が経営する宿に代わってゆく。
近都牧-豊島牧
水利が乏しく稲作には必ずしも適していなかった箕面市域の土地利用は、まず牧草地として始まった。
すなわち、王朝時代、朝廷はここに豊島牧が置いた。豊島牧は右馬寮に属する近都牧である。近都牧は牛馬を増殖するための牧ではなく、毎年諸国から貢上された牛馬を一時的に保管して、中央政府の必要に応じて供給するための牧である。豊島牧の範囲は、箕面川流域の平尾・西小路・桜・牧落の範囲である。
しかし、牧場は南北朝動乱の中で消滅しその跡は牧村となり、純農村へと変化してゆく。
延喜式左右馬寮の条によると近都牧には次の6牧があった。
右馬寮所管の牧=摂津国鳥飼牧(摂津市鳥飼)、摂津国豊島牧(箕面市牧落付近)、摂津国為奈野牧(伊丹市荒牧附近、これは国司管理)
左馬寮所管の牧=近江国甲賀牧(滋賀県甲賀市水口町)、丹波国胡麻牧(京都府船井郡日吉町)、播磨国垂水牧(神戸市垂水区)(これら3牧いずれも国司所管)
修験道の創始者役行者
役行者
役行者、名は役小角、後に、光格天皇から「神変大菩薩」の号を贈られた白鳳時代の山岳修行者で、修験道の開祖として山伏たちに崇められている。彼は実在の人物であるが、史書に残るところは極めて少なく、その生涯の殆どは伝説の中で伝えられている。しかも、その伝説には色々な異説があり、真実はつまびらかでない。しかし、伝説の多くが語っているところによると、彼は大和国南葛城郡の茅原村(現在の御所市茅原)で、舒明天皇の6年(634)に、賀茂氏の流れを汲む家に生まれた。17才で元興寺に学び、やがて、葛城山で山林修行に入り、さらに、熊野や大峰の山々で修行を重ねる。
ある時、北の方角に霊光を見、その光を追って摂津国箕面山に到る。山麓の坂下で大聖歓喜天の化身である老翁に会い、その教えに従って大滝の上の竜穴(御壺)の中へ入って、そこで龍樹菩薩から法を授けられる。(龍樹菩薩は2世紀頃の南印度の人であるから、もとより、それは事実ではなく、滝は龍であるとの観念によるものであろう)。その後、吉野の金峰山に赴き蔵王権現を感得し、憤怒の形相すさまじいその仏の姿を、悪魔を降伏させ衆生を済度する仏として、桜の木に刻んで堂に祀る。(これが金峰山蔵王堂の草創であると云う)。やがて、彼は全国の霊山と云われる山々をくまなく遍歴し、その足跡は、北は羽黒、月山、湯殿の出羽三山より、南は彦山、阿蘇、霧島、高千穂に及んだと云われる。それと共に彼の法力は超人の域に至ったと云われている。彼には、前鬼ぜんき(善童鬼)、後鬼ごき(妙童鬼)と呼ばれる夫婦の従者がいたと伝えられ、また、吉野山と葛城山との間に石橋を架けようとしたと云う伝説もある。
ところが、文武天皇3年(699)の5月、彼の弟子の一人であった韓国連広足が、その能力を妬んで彼を讒言したため、妖術をもって人心を惑わす者として捕らえられて伊豆の大島に流罪になる。(実は、この伊豆嶋流罪の記事だけが、彼について史書が記した唯一のものである)。
2年後の文武天皇5年(701)1月、罪を許されて帰京するが、それから4ヶ月後の5月(3月に大宝と改元して大宝元年5月)箕面において寂滅したと云う。
箕面寺(瀧安寺)の草創と沿革
弁天堂
白雉元年(650)箕面に来た役行者は、坂本で老翁に会い、山中に滝があると教えられ、滝の所に行くと、彼が金剛山から投げた三鈷が松の上に懸かって霊光を放っていた。
滝の上の龍穴(御壺ごこ)に入って龍樹菩薩を拝し、徳善太皇(薬師如来)より伝法灌頂を受ける。
滝の本で不動明王の像を刻む。大荒神が現れたので、これに荒神供こうじんぐを勤行する。
龍樹菩薩像と弁才天像を造り、大滝の下に草堂を建てて安置し、箕面寺と称する。それ以後、山林修行の道場として、滝の周辺に五十余の堂塔が立ち並び、「聖の住処」として知られる。
応和2年(962)村上天皇の勅によって、千観せんがんが降雨の法を行い法験があった。
元仁2年(1225)初めて焼亡するも、直ちに再建。
後醍醐天皇の隠岐脱出を、護良親王の令旨によって修法して功績があり、天皇より瀧安寺(「ろうあんじ」と読むべきで、「りゅうあんじ」と読むのは俗称)の名を賜る。
永享8年(1431)に火災にあい、慶長元年(1596)には大地震で倒壊する。
慶長8年頃より、山路12町下流の現在地に再建が行われる。
後水尾天皇の勅命によって、明暦2年(1656)に本堂弁天堂を建立。
文化6年(1809)光格天皇から山門を賜り、京都御所から移築する。
修験道場として、また、滝と紅葉の景勝地として、独自の発展を遂げる。もとは天台宗であったが、現在は修験道を称している。
弥勒寺(勝尾寺)の草創と沿革
神亀4年(727)、善仲・善算の両上人(摂津の国司藤原致房の双生児)が、この山に登り草庵をを結んで観経を始めた。
勝尾寺山門天平神護元年(765)、両上人が後の峰に行ってみると、光仁天皇の皇子で桓武天皇の異母兄弟の開成皇子かいじょうおうじが修禅していた。皇子は両上人によって剃髪染衣する。
両上人は大般若経六百巻の書写を志していたが、それを開成皇子に託し相次いで没す。
皇子は宝亀6年(775)、書写を終了、六角堂を建立して、これに収める。
宝亀11年(780)、妙観比丘が僧俗十八人の童子と共に来て、八尺の白檀木より千手観音を刻む。寺は勝尾山寺と呼ばれ、弥勒菩提院、弥勒寺とも呼ばれた
第四代座主証如が念仏信仰を本格的に確立する。(貞観8年(866)寂滅)
第六代座主行巡が清和天皇の病気平癒を修し、元慶4年(880)、天皇が勝尾寺に臨幸。
この頃(承平3年(933)以前)、総持寺の別院となる。
寿永3年(1184)源平合戦の時、源氏の軍の侵入により、焼失するも、建久元年(1190)までに再建する。
寛喜年間(1229~1231)、豊島牧や萱野郷と山林利用をめぐって境界論争が起こり、寛喜2年(1230)、傍(正しくは片扁)示八天石蔵ぼうじはってんのいしぐらを作る。(創建当時から作られていたが新ためて設置)
寛元3年(1231)、坂本大鳥居建立、宝治元年(1247)、町石ちょうせきを建立。
鎌倉時代末期、急速に、僧兵による武装化。
建武中興では宮方につき、総持寺領(浄土寺門跡領)の美河原、外院、高山の領有を主張するが果たせず。
足利尊氏より高山荘の地頭職を得て、足利勢の一部に組み込まれる。(この高山荘の地頭代官より、中世末期に戦国大名高山氏が生まれる)
太閤検地により、寺領は僅か7石に転落する。300町を越える山林は安堵される。
元和2年(1616)、堂塔を焼亡するも直ちに再建。
延宝の頃、真言宗高野山釈迦文院を本寺とする。
明和3年(1766)、再び大火、再建は遅々として進まず。
寺院経営のため、寺領山林を乱伐・売木し山林は荒廃する。
現在は西国三十三番観音札所の第23番(本尊は十一面観音)として栄えている。
聖の住処-箕面よ勝尾よ
聖(ひじり)とは、本来は高徳の僧の意味であるが、十世紀頃から、正規の寺院での修行に不満を抱き、それを離れて別所(本寺の周辺に結んだ草庵の集落)で修行したり、あるいは、諸国を遊行する僧が現れる。彼らのことを「聖」と呼んだ。特に、念仏行者には「聖」となるものが多かった。
こうして諸国を遊行する念仏僧たちが、しばしば足を留めて滞在する諸国の寺の中に、箕面の勝尾寺と瀧安寺(当時は箕面寺と呼ばれた)があった。梁塵秘抄の中に収録されている次の2首の今様の歌が、このことを示している。
○聖の住所は何処何処ぞ、箕面よ勝尾かちうよ、播磨なる書写そさの山、出雲の鰐渕や日の御崎、南は熊野の那智とかや
○聖の住所は何処何処ぞ、大峰・葛城・石の槌、箕面よ勝尾かちうよ、播磨の書写そさの山、南は熊野の那智新宮
<註>梁塵秘抄
平安時代末期の後白河法皇が、当時、巷で歌われていた雑芸の歌を執念のように洗いざらい集めて「梁塵秘抄」を編集した。梁塵とは建物の棟木の上に積もった軽い細かい塵のことである。中国の古い書物に、美しい声で歌う歌の響きは棟木に積もった塵を動かすと云う意味の言葉があり、これによって名付けられたものである。
歌詞10巻と、その楽譜ないし歌唱法に当たる口伝集10巻の合計20巻から成る膨大なものであったが、いまは大部分が散逸して、僅かに第1巻の一部分と第2巻、それと口伝集の第10巻とだけが現存しているに過ぎず、僅かに560余首が残っているのみである。
集められた巷間の雑芸の歌謡は、大別して、神楽、催馬楽、風俗、今様の四つに分類されているが、今に残る梁塵秘抄の歌の大部分は今様である。今様とは当世風と云う意味であり、和讃や雅楽の影響を受けて生まれた。
こうした今様は、遊女や白拍子たちによって歌われた。平家物語に登場する祇王、祇女、仏御前、静御前らは、その白拍子であった。
教信・証如-口誦念仏の創始
教信・証如
六字名号を常に口誦する口誦念仏(称名念仏)は勝尾寺の第4代座主証如から始まるとされているが、証如もまたそれを教信と云う人物から教えられたと云う。
教信は天応年間に奈良もしくは京都で生まれ、興福寺に入った後諸国を放浪し、播磨国賀古郡の賀古駅かこのうまやの北、現在の加古川市野口に草庵を結び、阿弥陀仏の称名を常に口に唱え、旅人の荷物を運ぶ仕事で生計を立て、妻を娶り子供も一人生まれる。いつも西方浄土を念じて念仏を唱えているので、人々は彼を「阿弥陀丸」と呼んだ。彼は僧にもあらず俗でもないので(非僧非俗)後の人は彼を沙弥教信と述べている。
彼は貞観8年に亡くなるが、この時、自分は生前、生き物を食べているいるので、せめて死んだ後の体は鳥獣に供養したいと遺言したので、家人は遺体を裏の林に捨て、遺骸は鳥獣の食い荒らすところとなる。しかし、頭部だけは全く汚されていなかった。
この口誦念仏が、教信から勝尾寺の証如へ伝わる経緯には、ひとつの霊験譚が残されている。貞観8年8月15日の満月の夜、勝尾寺の証如の夢に教信が現れ「私はいま往生を遂げた。あなたも来年の今月今夜、往生されるであろう」と告げて消えた。証如が弟子の勝鑑を加古川へ遣わすと、間違いなく、念仏三昧の教信なる者が亡くなっていた。そして、証如もまた翌年の8月15日に入滅したと云うのである。
現在、勝尾寺の裏山の東海道自然歩道沿いに証如と教信の墓が並んで立っている
行巡-清和天皇の巡幸
清和天皇は当寺の第六代座主行巡上人が法力に優れていることを聞き、宮中に招こうと、藤原佐道を使者として送るが、上人は応じない。佐道が「普天の下、率土の浜、王土王臣にあらざるはなし」と、王の命に応ずることを迫ると、上人は数尺の棒を立て、その上に座った。しかし、上人は念珠と袈裟を献じ、天皇の病は平癒する。
天皇は勝尾寺に臨幸。上人は旧参道の対面岩なる大石の所で、天皇を迎える。
かくて、「王に勝つ」と云うことで「勝王寺」の寺号を賜ったが、それでは恐れ多いと云うことで「勝尾寺」としたと伝えている。(勝王寺が転じて勝尾寺となったとするのは伝説に過ぎない。勝尾の「尾」は尾根の意味で、勝尾は最も秀でた尾根の意味である。現に、この山は「最勝ガ峰」(サイカチノオネとも読む)と呼ばれている)
千観-箕面の尊き聖
生没年は延喜18年~永観元年(918~984)。相模国の国司橘敏貞の子。子に恵まれなかった母が、清水寺の千手観音に祈り、一葉の蓮華を授かる夢を見て懐妊し生まれたので、生まれた子に千観丸と名付けたと云う。12才で園城寺に入り僧となるが、その時、幼名をそのままに千観と名乗った。
園城寺で運昭に顕密の教えを学び、比類なき智者と云われ、推挙されて内供奉十禅師となり、阿闍梨伝燈大法師の名をも給う。この頃、彼は勅命によって、洪水で消失した愛宕おたぎ寺を再興する。
ある時、彼は車で朝廷からの帰途、四条河原で空也に出会い、この時から名利を捨て去り、浄土信仰へ入る。
応和2年(962)、箕面寺に入り、常に念仏を唱えて「念仏上人」とも呼ばれるようになる。元亨釈書によると、村上天皇の応和3年(963)箕面寺に居る千観に、旱天のため請雨の修法を行うベしとの勅命がある。彼が勅使と共に大滝に至り、滝口を覆う柳樹に登り香炉を捧げて祈ると、香煙は立ち上って山谷に満ち、黒雲がそれと合して忽ち降雨となったと云う。人々は彼を「箕面の尊き聖」と呼んだ。<当時、箕面寺は天台の寺であるよりも、浄土系の寺であった>
康保元年(964)箕面を去って島上郡に移り安満寺を浄土日想観の地として再興して金龍寺と改称して、ここに止住する。(日想観とは、観無量寿経に説かれる十六観の第一で、西に没する太陽を観察して、西方の極楽浄土を思い浮かべる修行である)。こうして永観元年(983)66才で入滅するまで金龍寺に住む。
彼は「法華三宗相対抄」50巻ほか多数の著書を著し、民衆教化のために我が国最初の和讃「極楽国阿弥陀和讃」を作り、念仏者の規範として「八誓十願」を定める。
瀧安寺の聖天堂-聖天宮西江寺
滝安寺への入口に当たる中の坂に聖天宮西江寺がある。この寺は滝安寺(箕面寺)の僧坊の一つとして建てられ、滝安寺の山麓にあって、その寺域を守護するために大聖歓喜天を祀ったものである。
本尊として祀られている大聖歓喜天は仏教で天部に属する護法神であるが、天部の仏は、もともと仏と神の両方の性格を帯びている。このため、この寺は神仏混淆となる。
従って、ここは、西江寺と云う寺院でもあり、聖天宮と云う神社でもある。寺院としては、高野山真言宗に属する。神社としては、旧平尾村(現在の箕面市箕面地域)の氏神である。
伝承によると、役行者が北の方角に霊光を見て、その光を追って箕面山に来た時、この場所で一人の老人に出会い、この山の奥に滝があることを教えられる。この老人が実は大聖歓喜天であった。従って、この場所は我が国最初の歓喜天の出現の地であると称する。境内には、役行者と歓喜天との対談石なるものもある。
この時、老人は「この山は自分の領地であるが、これをお前に与えるから、ここに伽藍を建てよ」と語り、土地を贈与したと云う。従って、この老人=歓喜天はこの地域の地主神であり、この地域の氏神である。
<註>大聖歓喜天(または歓喜自在天、略して聖天、または歓喜天)
大聖歓喜天仏教において天部に属する護法神の一。ヒンドウ教におけるガネーシャ(ヴィナーヤカ)が仏教に取り入れられたものである。障りをなす魔神を支配する神とされ、除障・富貴を目的として祭られる。象頭人身の男女の相擁する姿(ミトーナ像)で表される。
シバと、その妃パールヴァテイの子で、シバのモンスーン的狂暴性を受け継いで、猛烈な破壊の神(障碍神)であったが、転じて強力な護法神となり、あらゆる障害を取り除き、あらゆる願いを聞き届ける。(これを六通自在と云う)
障碍神から護法神に転じたのは、十一面観音が女体となって現れ、(女ヴィナーヤカとなり)、これと交って歓喜し慰撫されたからとされ、男女像はその性交の姿であると云う。
▲聖天のシンボルマークは、ラフタ(大根)とモーダカ(巾着型の団子で聖天団と云う)である。これは男根(リンガ)と女陰(ヨニ)の象徴である。この寺のお堂の正面に懸けられている大提灯や建物の釘隠しには、巾着と大根の絵が描かれている。堂の屋根の軒丸瓦の絵や、堂前の線香立ての形も巾着になっている。
聖天の像は淫像のため秘仏にされ、厨子の前に十一面観音もしくは不動明王を前立として置いている。住職は夜中に浴油供と云う秘儀を行う。これは7日間、1日7回、毎回108回、熱いゴマ油を像に注ぐものであり、愛液のぬめりの意味である。
箕面の名物となっている「紅葉の天ぷら」は、聖天団(モーダカ)が原型である。すなわち、油で揚げた巾着型の団子で、地元で「おだん」と呼んだものが原型である。これが変化して、紅葉の葉を入れて「もみじの葉衣はごろも」と呼ぶものが作られ、これが今日のように「紅葉の天ぷら」と云われるようになった。紅葉の葉は、黄色に色づき葉が大きい「一行寺楓」と云われるものが最も良いとされ、これを塩漬けにして用いる。
為那都比古神社二座-延喜式内社小社
延喜式に為那都比古神社二座(小社)とあるのは、為那都比古、為那都比売の2神で、もともとは2神は同じ社殿で祀られていた。物部系の為奈物部氏の出自である猪名県主いなのあがたぬしが、その祖神を祀ったものと考えられる。
医王岩
神社の元々の場所は、現在大宮寺跡と呼ばれている近辺と考えられる。ここには、北へ200mほどの山中に、巨大な人間の上半身像に似た医王岩(薬師岩)と呼ばれる巨石があり、大国主神・少彦名神の依代(影向石)とされていた。本来この岩が為那都比古比売2神の顕ち給うた影向石と考えられ、この岩を祀ることが、この神社の起源であったと思われる。
平安時代の中頃、この神社に大宮寺と云う神宮寺が作られる。創建は、当時の豊島郡司時原佐道。開基は醍醐寺の聖宝とされる。時原氏は6世紀以来この地方に勢力を張っていた秦氏の流れである。大宮寺は薬師如来を本尊とした。これは、少彦名神が生産神であると共に医薬神であるためである。
ところが、いつの頃からか、比古神と比売神を別殿で祀るものとし、従来からの社殿に比売神を祀り、少し南東の場所に比古神のための社殿を新たに設けた。比古神を祀る社殿が現在の為那都比古神社である。
ところが、疫病を防ぐ強力な神として牛頭天王ごずてんのうに対する信仰が、燎原の火のように民衆の間に広まってゆき、北摂においても牛頭天王を祀る神社が数多く現れる。為那都比古神社も、大宮神社とも呼ばれた為那都比売神社も、牛頭天王を祀り、比古社は牛頭天王社、比売社は西天王社、もしくは大婦天王社と呼ぶようになった。(ちなみに、民衆にとって「てんのう」とは「天皇」のことではなく「牛頭天王」のことであった)
人々は、このことに別に違和感は感じなかった。上述のように為那都比古2座の神の本地仏は薬師如来であり、他方、牛頭天王も本地仏が薬師如来であるから、為那都比古2座と牛頭天王は同一の神の別名と考えたからである。
明治初期、明治新政府は神仏分離を政策とし、神とも仏ともつかぬ牛頭天王を祀ることを禁止し、祭神も社名も変更することを求めた。このため、比古社は再び為那都比古神社となり、比売社は大宮神社に戻った。そして、祭神も元に戻した。また神宮寺であった大宮寺は神仏分離によって廃寺となり、現在は薬師堂のみが残って薬師寺と称している。
さらに、明治40年代の神社統合によって、原則として一村一社とされ、比売神の大宮神社は廃社となって、比古神の為那都比古神社に合祀された。(数百年ぶりに夫婦が同居できたのである)。この時、旧萱野村の他の神社(10社)もすべてこの為那都比古神社に合祀され、為那都比古神社は旧萱野村各村落の氏神となった。
阿比太神社-延喜式内社大社
物部氏系の阿比太連(後に大俣連、さらに大貞連、大真連と改姓)が、その本貫地である摂津国豊島郡内に、その祖神である饒速日命を祀った氏神の社より起こったと思われる。応神天皇2年の創建としている。
社地は当初は、平尾の芦原池の近くにあったが、この場所が豊島牧の牧場になったために、現在地に移動したと云われている。
牛頭天王信仰が広まると、ここもまた牛頭天王ごずてんのうを祀って牛頭天王社となったが、明治初年の神仏分離の際に、牛頭天王の別の姿と考えられている素盞鳴尊すさのおのみことを祭神とした。
古くは、牧の荘の総社と称し、また、明治40年代の神社統合では、箕面村内の総ての神社がここに統合されるはずであったが、平尾、西小路、瀬川は統合しなかった。従って、現在は半町、桜、新稲の氏神である。
<註>阿比太連
新撰姓氏録によると、饒速日命にぎはやひのみことの第十五世孫大市御狩連の後裔とする物部系の氏族である。伝承によると、御狩連は聖徳太子が摂政の時に、大蔵官に任ぜられたが、大和の巻向にあるその家には大俣の楊の木があったので、太子から大俣連の姓を授けられ、更にその四世の孫千継は、改めて大貞連(あるいは大真連)の姓を賜ったと云う。
箕面の中世
荘園国衙体制下の箕面
古代の律令体制が崩壊してゆき、代わって、有力社寺・権門による荘園が全国的に増加して、いわゆる荘園国衙体制に入ってゆくと、箕面地方はほぼ次のようになってゆく。
垂水西牧←萱野郷
垂水東牧←小野原
浄土寺領(総持寺領)←粟生外院(外院荘)、止々呂美(美河原荘)
右馬寮御牧(国衙領)←牧村、瀬川村
これらのうち、垂水東牧・垂水西牧は摂関家藤原氏が領主で、やがて春日神社に寄進された。このため、それらの村民は春日神社の神人と称するようになる。
勝尾寺の町石塔婆
二町石
西国街道の石造の大鳥居から旧参道に沿って勝尾寺山門までの間36町(1里=3.9km)に、1町(約109m)ごとに、山門までの距離を示す標識の石柱が36基作られている。
これらのうち、山門から、勝尾寺前山(陣場山)の傍*正しくは片扁示谷までの間の8基(下乗塔婆~七町塔婆)は鎌倉時代の宝治元年(1247)建立の、我が国最古の町石で、国史跡となっている。五輪塔形式で下部の地輪に梵字、町数、願主を彫る、多くには若干の破損があるが、一町と二町とのみは完全な形で残っている。
これらよりも南の28町の間のものは、江戸時代に大坂淡路町の小嶋屋長左衛門、もしくはその後室の寄進によって作られたものである。これらは、多くは失われており、現存するのは半数である。順番が狂っている所もある。
軍荼利明王石蔵
勝尾寺では寺域の境界を明示するために、周囲の8個所に、4体の天王像と4体の明王像を埋めた。像は信楽焼の陶器の壺に納めて埋められ、その上に石を積んで3段の壇にしてある。国の重要文化財になっている。
四天王、四明王はそれぞれに守護する方向を分担している。その名前と守護の方向は、
四天王は、持国天(東)、増長天(南)、広目天(西)、多聞天(北)
四明王は、降三世明王(東)、軍荼利明王(南)、大威徳明王(西)、金剛夜叉明王(北)
なお、明王は本来は五大明王であり、これでは中心になるべき不動明王が欠けている。従って、勝尾寺境内内の荒神堂の前にある八天の要石の下に不動明王像が埋納されているのではないかと考えられている。
八天石蔵のそれぞれの場所は、
持国天 勝尾寺園地の奥の尾根先端 降三世明王 降三世道の鉄塔の下
増長天 茶長坂川の畔の八天杉の下 軍荼利明王 勝尾寺前山頂の表参道脇
広目天 清水谷入口の箕面川の畔 大威徳明王 政の茶屋入口の右
多聞天 北摂霊園の山頂 金剛夜叉明王 北摂霊園事務所の下
光明天皇の七重石塔
光明院石塔
北朝の第2代光明天皇は、本朝皇胤紹運録に「康暦2年6月24日、勝尾寺の草庵にて崩御」とあり、古くから、勝尾寺東方の光明院谷にある七重石塔が、その御陵であるとされて来た。これは、崩御から49日の七七忌の時に建てられたもので、中には遺骨を納めるための穴も穿たれている。しかし、明治31年に宮内省は、「神皇系図」の記載に従って、光明天皇の陵墓は京都伏見の大光明寺にあると云うことにしたので、勝尾寺の石塔は単なる供養塔と云うことになってしまっている。なお、崩御の場所を大和の長谷寺とするものもある。
光明天皇は後伏見天皇の皇子で名は豊仁。北朝の第1代天皇となった光厳こうごん天皇の弟。建武3年(1336)九州から東上してきた足利尊氏に擁立されて北朝第2代の天皇となる。後醍醐天皇が吉野へ逃げて南北朝分裂となって後、貞和4年(1348)兄光厳天皇の子の興仁おきひと親王(北朝第3代崇光すこう天皇)に皇位を譲る。
ところが、観応2年(1351)足利尊氏が南朝側に和議を申し入れると、南軍が京都に進駐し、崇光を廃するのみならず、光厳・光明・崇光の三上皇と皇太子直仁を拉致して賀名生あのうに幽閉する。尊氏の子義詮は京都を奪還し彌仁いやひと親王を後光厳天皇(北朝第4代)として擁立する。これによって、三上皇と廃太子は、賀名生で2年、河内天野の金剛寺で3年を過ごすことになり、延文2年(1357)、尊氏が再び南朝との宥和政策を進めるに至って、やっと帰京することができて、伏見の金剛寿院に入る。(南北両朝が合体するのは、それからなお35年後の1392年)。
光明天皇のその後の足跡については明らかでない。一所不住の旅を続け、勝尾寺もしくは長谷寺で身を終わられたのであった。
法然の勝尾寺滞在
二階堂
勝尾寺は真言宗の寺であるが、その中にあって、二階堂だけは浄土宗になっている。これは、浄土宗の開祖法然が、その生涯の最後の4年間を、この二階堂に逗留したことの縁による。
法然は美作国久米郡の出身。久米郡の押領使であった漆間うるま時国の子。幼名は勢至丸。9才の時、父が宿敵の明石源内定明に斬殺され、これを契機として仏門を志し、13才の時、比叡山に上り、18才の時、西塔黒谷の慈眼房叡空の弟子となり、善導の観無量寿経疏に接して開眼し、源信の往生要集をしるべとして、阿弥陀如来を一筋に念じて浄土に往生することを願うと云う庶民救済の教法を固める。43才の時、師叡空から法然房源空の号を授かり、山を下りて猛然と布教を開始する。
この教えは忽ちに庶民の間に浸透していったが、他方、既存の諸宗派から激しい圧迫攻撃を受ける。彼75才の時、女官たちを出家させたことから後鳥羽上皇の怒りに触れ、4人の弟子は死罪になり、彼も土佐国(実際は讃岐国)へ流罪になる。9ヶ月後には赦免の沙汰が下るが、そのまま京都に入ることは許されず、摂津国勝尾寺の二階堂に4年間逗留する。80才になった時、再び京に戻るが、日をおかず入滅する。
在郷町化した瀬川
中世に至ると、農村化した箕面地域にも次第に商品経済化の波が押し寄せる。この地域での主な生産商品は木材と炭である。それらは公事くじ(雑役)として国衙こくがあるいは荘園領主に徴収されたが、一部分は商品として市場で売買される。
住民は自家使用の目的を超えて山林を伐採するようになり、勝尾寺や箕面寺の寺領山林に入って木材を伐り出した。このため、寺僧と住民との間に、しばしば喧嘩沙汰が起こり、両者の間で深刻な争論が引き起こされるようになる。勝尾寺が?示八天石蔵を作ったのも、その寺域を明確にするためであった。
近世に入ると、商品作物の種類は多様化してゆき、酒米、菜種、果樹、山菜、煙草、木綿なども生産されるようになる。
律令制度による駅家うまやの制度は10世紀に入ると急速に衰え、代わって、私人が経営する宿が現れる。箕面でも、古代の草野すすきの駅は機能を失い、代わって瀬川宿が現れる。
ところが、中世に入り農村も商品経済化してゆき、商品としての物資の生産を行うようになると、この瀬川宿はそうした生産商品の集散地の性格を持つようになり、小規模ながら町の姿を帯びてくる。このような村落を在郷町と云う。
元弘三年瀬川合戦
播磨国佐用郡佐用荘の地頭赤松則村(円心)は元弘2年(1332)護良親王の令旨を受けて挙兵し山陽道を攻め上り、兵庫の摩耶山に城を構える。幕府軍が攻撃してきたが、これを破って敗走させる。再び幕府が赤松討伐の軍勢を差し向けてくると、則村は摩耶城を出て猪名川右岸まで進出し、川西・伊丹・尼崎の線に軍を展開して待ち受ける。3月10日幕府軍は猪名川左岸の瀬川宿に到着し両軍相対峙する。
則村が決戦日は明11日と考えて備えを緩めていたところへ、にわかに阿波国の守護小笠原の軍勢が尼崎に上陸して急襲してきた。則村は破られるが、敗兵を集めて軍を立て直すと、自分の方から敵陣へ押し出していった。ここに瀬川合戦が始まる。
幕府軍は二三万騎、赤松軍は三千騎。幕府軍は瀬川宿の南北30町の家々に旗指物を掲げて宿営している。風に翻っている旗の数は二三百流もあろうか。時に、円心則村の次男貞範は郎党27騎を率いて「南の山」に登り、竹の繁みを楯にして散々に矢を射掛け、忽ち敵将25騎ばかりを射落とす。幕府軍は狼狽する。その機をのがさず赤松勢七百余騎が鬨の声を上げながら敵に打ち掛かると、敵は我先にと逃げてゆく。赤松勢は忽ち三百余の首級を挙げ「宿河原」で首実検をする。
赤松軍はその夜のうちに宿河原を立って、道々の民家に火を放って京へ進み、山崎・八幡へ拠点を移し、12日、勢いに乗じて鳥羽から伏見に乱入するが、15日には今度は幕府方が赤松の山崎の陣に攻撃をかけてくる。4月3日、赤松勢は再び下京へ攻め込む。しかし、いずれの戦いも双方ともに決め手を欠き、戦局は慢性化してしまう。やがて、船上山を発した千種忠顕ちぐさただあきの軍が京都包囲に加わり、更に、4月29日には、丹波笹村において幕府に反旗を翻した足利高氏が加わり、遂に5月7日、幕府の京都六波羅探題が陥落する。そしてやがて鎌倉幕府は滅亡する。
建武三年豊島河原合戦
新田義貞の軍を箱根竹ノ下で破った足利尊氏は、建武3年(1336)1月11日京都に突入した。しかし、東北の軍兵を率いて駆けつけた北畠顕家の軍によって、27日には遂に京都を退去することを余儀なくされ、丹波へ落ちる。
しかし、尊氏は軍を立て直し、2月3日摂津国湊川に集結し、直義に京へ攻め上らせる。他方、顕家・義貞の軍も尊氏軍を 追討しようと攻め下り、摂津国豊島河原で遭遇戦となるが、勝敗はつかない。これが豊島河原合戦である。
遅れて馳せ附けた楠木正成の軍が、敵の背後に回ろうと西宮の浜に寄せたので戦場は西宮へ移るが、その時、尊氏軍には九州勢の援軍が海上から兵庫に上陸し、宮方には四国伊予の援軍がやはり海上から西宮浜に上陸する。両軍は越水・打出の辺りで戦うが、尊氏は戦況の不利を見て、九州勢の船に乗って夜陰に紛れ西へ走る。(打出合戦)
2月20日尊氏は赤間関に到着。3月2日筑前の多々良浜で菊池武敏を破り、4月2日博多を出発して東上の途に赴き、5月25日楠木正成を湊川で破り、同27日再び京都の地を踏む。その後、半年に及ぶ京都市街戦の後、後醍醐天皇が吉野へ走り南北朝の分裂となる。
箕面の国人たち
国人とは 中世後半(南北朝、室町、戦国時代)に現れた在地領主を云う。もともとは、地方の地頭、荘官、有力名主らであったが、幕府権力の衰退と共に、各地に小規模な領主制を形成していったものである。彼らは荘園制を利用しつつも、次第にこれを侵略して勢力を拡大した。それと共に、しばしば守護大名の被官となり、あるいは逆に、連合して守護大名を排斥して、その勢力を拡大した。それらの中には戦国大名にまで成長したものもあるが、その殆どは、滅亡するか、もしくは、戦国大名の家臣となってゆく。
箕面平野に発生した国人は、北部の粟生氏と南部の萱野氏の2氏である。しかし、独立した勢力を持つ程のものではなく、2氏ともに池田氏の配下となり、やがて元亀元年(1570)、池田氏内でクーデターが起こり、池田勝正が追放され荒木村重が実権を握ると、2氏ともに荒木村重に属し、そして、粟生氏の方は更に村重配下の中川清秀に属し、白井河原合戦では和田惟政これまさを討ち取る功績を挙げる。
その後、荒木村重が天正7年織田信長によって滅ぼされて後、萱野氏は美濃に隠れ、江戸時代に入り、美濃出身の旗本大嶋氏の縁によって箕面へ帰り、大嶋氏所領の代官となる。その家門に赤穂義士の萱野三平が生まれる。
他方、粟生氏の方は中川清秀が賤が岳の戦いで戦死した後は、その子中川秀政、次いで秀成に仕え、秀成が豊後の岡に転封になると、それに従って豊後に移る。
信長の能勢進攻
天正7年4月、織田信長は、謀叛を起こして伊丹城に立て籠もっている荒木村重を大軍をもって囲んでいた。彼は、村重に同調している摂津北部の諸城を掃討するために、嫡子信忠、弟信澄の二人を総大将とし、中川清秀などの軍、総勢1万5千を進発させた。先鋒は中川清秀。攻撃対象となったのは、
止々呂美城(箕面市下止々呂美)、馬場城(箕面市上止々呂美)、鷹取城(能勢町山辺)、山口城(能勢町野間口)、片山城(能勢町片山)、佐曽利城(宝塚市上佐曽利)。
最も手近な所にある止々呂美城が、先ず攻撃目標となった。先鋒の中川清秀の軍にあって、更にその先手となった田近新次郎長祐は、止々呂美城主の塩山平右衛門と昵懇であったので、説得して降伏させる。
止々呂美城が開城すると、同族である塩山肥前守の片山城も和議に応じて城を開き、馬場城の城主馬場常陸介頼方も開城する。
4月29日、信忠は全軍に命令して、鷹取城と、その支城の山口城への攻撃を開始させる。鷹取城では城主能勢丹波守義純が打って出て討ち死した。支城の山口城は城代の山県伊賀守が、主人義純の嫡子頼童を奉じて守っていたが、自ら切腹して開城した。
左曽利城の左曽利筑前守も、味方が次々に開城するので降伏した。
信長公記によると、信長はこの能勢作戦の直前の天正7年3月末日に、鷹狩りの帰途、箕面の滝に立ち寄っている。
信長公記巻12には、天正7年3月末日の条に「三月晦日みそか、御鷹野。みのをの滝御見物」とある。これによって、信長はこの能勢作戦の直前に鷹狩りの帰途、箕面の滝に立ち寄ったことが知られ、滝の下にあった瀧安寺が織田信長の兵火によって焼かれたと云う巷説の誤りが証明されている。
箕面の近世
豊臣政権は天正10年以来、全国的に逐次、農地の検地(いわゆる太閤検地)を行い、摂津国については文禄3年(1594)に検地を行ったが、検地に先立って村切りが行われた。村切りとは村の境界を確定して村域を定めることであるが、従来は「名・荘・郷・村」などの名で呼ばれる錯雑した多様な形体の下にあった農村を解体して、統一的に「村」を置いた。
粟生村・外院庄→粟生村、小野原村
萱野郷 →東坊島村、西坊島村、如意谷村、外院村、石丸村、白島村、今宮村、西宿村、芝村、東稲村、西稲村、
牧之庄(牧村)→平尾村、西小路村、牧落村、桜村、
瀬川宿・半町村→瀬川村、半町村、
止々呂美村 →上止々呂美村、下止々呂美村、
箕面の富籤
箕面の福富
滝安寺は毎年正月元旦から7日間行われる修正会の法要が終わる(満座)時に、この時に祈祷した牛王宝印の護符(お守り)を参詣者に抽選で授けた。これを富会と云い、このお守りを得た者は大きな福が得られると云うので、これを箕面の福富と呼んだ。
抽選の方法は次の手順である。参詣者は灯明料(志納銭)を納めて木札(富札)を貰い、これに名前を書いて大きな木箱(富箱)に入れる。箱の上の穴から寺僧が錐で突き(富突き)、錐に刺さって取り出された木札の名の人に護符を授けると云う手順である。古くは、修正会の勤行が終わった後、参詣人が堂の格子戸の狭間から竹竿(富棹)を入れておくと、この竹竿の先に寺僧が護符を無作為に差し込む方法で行われた。
護符を得た者は遠方でも夜通し駆けて持ち帰る。途中で他家に立ち寄ると福がその家にとどまるので、数人一組で食事や休憩も交替でとり、護符を持つ者は必ず屋外にいた。
牛王宝印は、全国の神社仏寺が出す厄除けの護符の料紙である。特に熊野権現のものが有名で誓紙として用いられ、裏面に起請文を認めることが行われた。
このような富興行は江戸時代中頃になると、各地の社寺のみならず民間でも、賭博の胴元としてテラ銭稼ぎのために行われるようになる。このために幕府は何度も禁令を出し、天保の改革では表面的には根絶するまでに至る。しかし、その間においても、箕面の滝安寺の富興行は営利を目的としない信仰行事として特別に許されて(御免富)存続した。現在、でも正月三ケ日と秋祭りに行われている。
近世領主支配
止々呂美を除く箕面には外様大名の領地はない。大部分は関東地方に本拠を持つ譜代大名の飛地領である。他に旗本領が混じる。西日本に対する支配体制を固めるために、大阪城および西国への街道筋を掌握しようとする幕府の意図によるものである。
この意図に基づいて、幕府は西国街道筋(小野原~瀬川)を当初は天領として直接把握したが、やがてその役目は武州忍藩阿部氏が担い、末期には一橋氏が担っている。
この阿部氏は老中や大阪城代を出す家であり、半町を領有した岡部藩安倍氏は大阪城番、粟生村を領有した永井氏は大阪城代を出す家であり、また一橋氏は御三郷の一つである。こうした配置によっても、大阪城の掌握を図ろうとする幕府の意図が認められる。
止々呂美は最初は全部が備中岡田藩伊東氏の所領であったが、上村を天領に移したのは、ここに硝石が産出するからと云う。
麻田支藩の代官所と郷倉
力石
旗本青木氏(麻田支藩とも云う)は箕面市内にある領地(平尾・西小路・牧落・桜下組)を支配し、年貢の徴収をはかるために、代官所や郷倉を置いていた。
代官所は平尾役場とも呼ばれ、西江寺の東の宝持山(特にここを屋敷山とも云った)にあった。その跡地には荼吉尼天だきにてんを祀った豊川稲荷の小祠が残っている。代官所内に屋敷神として祀られていたものである。
郷倉は年貢を収納する倉庫で牧落にあった。そこには年貢を納めに来た村の若者たちが力比べをした力石が残っている。3斗(45kg)4斗(60kg)5斗(75kg)の3つ石である。
新稲村の開拓
一般には六個山と呼ばれている法恩寺松尾山の南斜面に広がる原野は「ないら野」と呼ばれる荒れ地であった。ここは慶長元年(1596)に慶長伏見大地震を引き起こした五月山断層と云う活断層の真上にあるため、荒廃して原野のままになっていた場所である。しかしやがて近くの農民がやって来て少しの畑を作ったりしていた。<「ないら野」の意味は「勿入野」または「地震(ない)の野」と云う>
これに着目した川辺郡加茂村(川西市加茂)の吉田四郎兵衛(号を卜斎ぼくさいと云った)は、元和7年(1621)幕府の開発許可を得て、近隣の小農民を集めて大々的な開墾に着手し、寛永11年(1634)検地を受けて新稲村という新しい村を開いた。吉田家は新稲村の開発地主であり庄屋である。
当時、六個山は6つの村(平尾、西小路、桜、牧落、瀬川、半町)の入会山(複数の村が共同で持っている山)であったが、訴訟沙汰の末に新しい新稲村にも入会権が認められるに至る。
この吉田家に萱野三平の姉の「こきん」が嫁いでいる。そして、三平は自刃の前の日、元禄15年1月13日、この姉を訪ねて「あね様、とんとおさらばでございます」の言葉を残して帰って行ったと伝えられている。
吉田家墓地の隣にある栄松寺(曹洞宗)は吉田四郎兵衛が母の菩提を弔うために建立したものであり、もとは永松庵と称したが、享保8年(1723)に没した「こきん」の戒名「円覚院桂月知栄大姉」にちなんで、「永松」を「栄松」に改めたものであると云う。
萱野三平の物語
萱野三平旧邸
萱野三平重実。父重利の三男として、延宝3年(1675)萱野村に生まれる。
父重利は美濃出身の旗本大嶋出羽守の家臣。大嶋家の所領の椋橋くらはし庄(現在の豊中市大島町)の代官を勤めていた。
13才の時、大嶋出羽守の推挙で播州赤穂五万三千石の浅野家に仕官し、内匠頭長矩の中小姓となる。10両3人扶持。
主君浅野内匠頭長矩は元禄14年、勅使接待に当たって礼式指南役の吉良上野介義央の侮辱を受け、江戸城松の廊下で3月14日九つ前(午前11時頃)義央に刃傷に及ぶ。
藩地赤穂へ急報するため、萱野三平と早水はやみ藤左衛門は、その日の午後、鉄砲州の浅野家上屋敷を出発して早駕篭を乗り継ぎ、19日の未明赤穂に到着する。二人は疲労困憊し息も絶えに城代家老大石内蔵助の邸にたどりつく。(第2報が原惣右衛門と大石瀬左衛門である)。
18日、西国街道を西へ急ぐ早駕篭が、萱野村の三平の生家の前を通過する時、はからずも、三平は母「小まん」の葬式に出会うが、そのまま駕篭を急がせた。
後に、三平は同志と合流するために江戸に上ろうとするが、意図をさとった父重利は、大島家に迷惑の及ぶことを考えて許さず、 三平は忠孝の板挟みになり、翌元禄15年1月14日の主君の月命日の日に、自宅の長屋門の一室で自害する。 時に27歳。
辞世の句「晴れゆくや 日ごろ心の花曇り 涓泉」 赤穂藩には俳諧をたしなむ者が多く、萱野三平は俳号を涓泉けんせんと称した。ちなみに、大高源吾は俳号を子葉、神崎与五郎は俳号を竹平と云った。
大石内蔵助以下47人の同士が、江戸は本所松坂町の吉良邸に乱入し、義央の首を挙げたのは、11か月後の元禄15年12月14日。
萱野三平の墓
萱野三平墓
萱野三平の墓は死後38年目の元文5年(1740)に、甥の北河原長好と兄の孫萱野重好によって建てられた。戒名は「陽光院洞廊道義居士」。墓は以前は村の南の丘にあったが、現在は千里川沿いの共同墓地に移転している。
三平の墓は、他に、豊中市の光国寺(当時は妙圓寺、叔母と姉の嫁ぎ先)、新福寺(大嶋家の位牌所)にもある。
なお、高輪の泉岳寺にも、義士たちの墓の傍らに、他の義士たちの墓と全く同型の彼の供養塔がある。これに刻まれている戒名は「刃道喜剣信士」
萱野にある三平の墓の文字は百拙元養ひゃくせつげんようの筆によるものであり、その側面の墓誌は堀南湖ほりなんこの撰である。百拙も南湖も江戸時代中期に、その名を広く知られた錚々たる文化人である。こんな人たちが三平の墓に係わっているのは、三平の墓を建てた、三平のすぐ上の姉「おとら」が嫁いだ北河原好昌が伊丹の酒造家で、伊丹の領主近衛家煕このえいえひろを通じて、これらの文化人に交誼を取り結んでいたことによる。墓はこの好昌の子の長好と三平の兄重直の孫の重好と共同して建てたことになっているが、重好の方は名目的な建立者で、実質的には長好によるものである。
<註>伊丹郷町
荒木村重が築いた有岡城の堀で囲まれていた総構えの台地上の15ケ村は、江戸時代に入ると天領の利を生かして商工業者が軒を接する商工業都市となり、伊丹郷町と呼ばれ、特に酒造が盛んとなったが、寛文元年(1661)に五摂家筆頭の近衛家の所領となると、その奨励も加わっていよいよ発展し、鴻池、小西などの大酒造家も現れる。更に、ここで濁り酒から清酒を作る製造法が発明されてからは、その酒は「丹醸」あるいは「伊丹諸白」と呼ばれて、高瀬舟で猪名川を下し、更に遠く江戸まで樽回船で運ばれるようになる。
こうして資産を築いた酒屋の旦那衆たちは、俳諧をたしなみ書画を愛好し、領主の近衛家の当主たちが代々風流人であったこととも相まって、伊丹は文化の香り高い町となる。
西国三十三個所巡礼
観音霊場三十三個所巡礼は、全国的に数多いが、最も早くから始まったのが、西国三十三所である。三十三と云う数字は、観世音菩薩の功徳を述べた観世音菩薩普門品と云う法華経の中の経典で、観世音菩薩が時に応じ場に応じて、三十三の姿に変身して衆生を済度すると述べていることに因むものである。
西国三十三個所巡礼は徳道上人によって開かれたと伝える。奈良時代に長谷寺にいた徳道上人が死んで閻魔大王に会い、三十三所の観音を巡った者は地獄に落とさないと聞かされて、また生き返り、三十三個所巡礼を開いたと云う伝説である。これはもとより単なる伝説であるが、西国三十三個所巡礼では、徳道上人の廟所のある法起院が番外として加えられている。
次ぎに三十三個所巡礼の創始者とされるのは花山法皇(968~1008)である。法皇は9才の時に天皇を退位して出家し、以後、熊野、書写山、粉河寺などを巡拝して回った。法皇が落飾した山科の元慶寺と、41才で没した有馬の花山院とが、三十三個所巡礼に番外として加えられている。しかし、法皇の巡礼は女官たちを引き連れての物見遊山であった。
三十三個所巡礼の本当の創始者は、三井寺の行尊(1055~1135)と覚忠(1118~1177)である。行尊は寛治4年(1090)長谷寺を第1番とし、三室戸寺を第33番として巡拝し、覚忠は那智山を第1番とし、第33番を三室戸寺として巡拝している。いずれの場合も、順路は現在と異なっているが、巡拝する寺院は現在と全く同じとなっている。
その後、主に関東から来た人たちが、これに倣って三十三個所を巡拝するようになるが、まずお伊勢参りをし、次いで熊野三山に参拝し、その後に西国三十三個所を巡るのが一般的であったので、第1番を那智山青岸渡寺とし、最後を美濃の谷汲寺とする順路が作られてゆき、満願の後、信濃の善光寺にお礼参りをすると云う風習も出来上がり、箕面の勝尾寺は23番札所となった。
全行程は990km、180万歩と云われる。
瀬川半町立会駅
律令制度による山陽道の一部、伏見~西宮の間は、江戸時代には山崎通やまさきみち(西国街道)となり、西宮で中国路(山陽道)と接続した。山崎通は全長9里2町(36km)で、7つの宿場が設けられた。(伏見-山崎-芥川-郡山-瀬川-昆陽-西宮)
そのうち、箕面市域に置かれたのが瀬川宿である。
宿場には、①人馬の継立て(旅人とその荷物を駅伝によって運搬する)のために問屋(公用のための伝馬所てんましょ、私用のための馬借所ばしゃくしょ)が置かれ、②旅宿を提供するために本陣・脇本陣(公用)、旅籠・木賃はたご・きちん(私用)が置かれた。
半町の集落は、もともとは箕面川の北岸にあったが、次第に街道筋に移住して、馬借・駄賃馬・旅籠を営むようになる。天和年間(1681~1684)にいたると、瀬川駅の助郷を命ぜられる。助郷とは公用のために無料である伝馬や本陣の経費を分担する村を云う。それが発展して、宿場の業務を瀬川と半町とが共同で行う立会駅たちあいえきになり、瀬川半町立会駅と呼ばれるに至る。こうして、本陣も瀬川と半町の両方に設けられ、両者は交替で役を務めるようになった。
瀬川は中世には小規模ながらも商品集散地の機能を持ち、在郷町の性格まで帯びていたが、近世も半ばを過ぎると、商品集散地としての機能は、水運の利便を持つ池田に奪われてゆく。
頼山陽の来遊
頼山陽詩碑
江戸後期の儒学者頼山陽は文政12年(1829)50才の2月18日、父春水の十三回忌の法要を営むため郷里広島に帰った。暫時滞在の後、母静子を伴って3月19日京都に戻った。母は10月まで京都に滞在し、共に各所を訪れた。いよいよ広島へ帰るとき、山陽は友人、弟子と共に母と伊丹・箕面で遊び、その後自身は広島まで母を送った。
この時、箕面の滝で作った詩が、詩碑として滝の前に建てられている。箕面に来る前に伊丹で作った詩もまた、伊丹本町のバス停に立っている。
この時、山陽およびその母に同行したのは、田能村竹田、後藤松陰、坂上桐蔭の三人である。
田能村竹田は豊後竹田村の人。岡藩藩医の子に生まれたが医業に進まず、学才を生かし、若くして藩校教授となり、35才で辞じて自由人として詩・書・画の生活に入る。大坂・京都・江戸の文人墨客との交流も深く、特に山陽とは親しい間柄。南画でも名を成すが、山陽と共に煎茶道の推進にも功績を残す。
後藤松陰は頼山陽の高弟、岐阜安八郡出身の朱子学者。山陽に信頼され、山陽の親友であり支援者であった篠崎子竹の娘婿となる。
坂上桐蔭は伊丹の酒造家。「剣菱」の醸造元。京都で私塾を開いたばかりの山陽を経済的に支援し、そのスポンサーであった。
江戸時代後期の宝暦8年(1758)紀州日高郡の生まれ、享和元年(1801)から文化11年(1814)の13年間、44才から57才まで、勝尾寺松林庵に住んでいた念仏行者である。彼が書いた蔦文字と呼ばれる独特な六字名号(南無阿弥陀仏の六文字)には霊験があると云われ、人々は競って彼に六字名号ろくじみょうごうを書いてもらった。勝尾寺を去った後は、江戸の小石川において一行院を再興して、これに居り、同所において文政元年(1818)61才で没す。
勝尾寺には現在も松林庵の跡が残され、彼の六字名号碑や供養塔が幾つも立てられている。また、箕面市域およびその周辺においては、彼の筆跡や遺品が数多く残されている。
役行者千百年遠忌
瀧安寺山門
寛永11年(1799)天台系修験道の総本山聖護院は、宗祖とする役行者の千百年遠忌を、宗門をあげて盛大に挙行することにした。
当時、聖護院門跡の盈仁法親王は時の天皇である光格天皇の同母弟であった。しかも、光格天皇自身が、安永8年(1799)に、急逝した後花園天皇の養子として9才で皇位を嗣ぐ以前は、いずれは門跡になるものとして聖護院に預けられていた因縁もあり、しかも、天明8年(1788)御所が火災で焼失した際、御所の再建が出来るまでの2年間、光格天皇は聖護院を仮御所としたと云う因縁もあった。
こうして、聖護院が挙行する役行者の千百年遠忌は、光格天皇からも多大な協賛を得ることになった。天皇はまず役行者に神変大菩薩じんべんだいぼさつの名を贈った。さらに、役行者が創建しかつ入滅した箕面の瀧安寺には、桜町天皇の御所の門を山門として寄進した。山門に掲げる扁額の、寺号の文字は盈仁法親王が筆を執った。
<註>天上ヶ岳
役行者の墓所とされる天上ヶ岳にある大日如来の真言「アビラウンケン」の石塔は、元禄12年(1699)の役行者千年遠忌の時に据えられた。
<註>光格天皇
光格天皇(1744~1812)は閑院宮典仁すけひと親王の第6皇子、初名は祐宮師仁さちのみやもろひと。生母の大江磐代は因幡国倉吉の商家の娘であった。強い朝権意識を持ち、幕府にも屈することがなく、幕末の尊王思想、反幕思想はこの天皇から発したと云われる。
箕面の近代
箕面公園の開設
観瀑賞楓の名勝地として古くから知られていた箕面山は、瀧安寺の寺領山林であったが、明治4年、社寺上地令により、寺の境内以外の山林は国有地となり、東京の高尾山と並んで、我が国最初の公園地となる。
明治8年2月4日、勝地と改称される。
明治31年、大阪府が国から無償で払い下げを受け、大阪府立箕面公園が発足する。
明治32年、国有地森林原野下戻法が制定され、公園地をもとの持ち主の瀧安寺に返還しなければならなくなり、権利争いの裁判となる。
明治40年5月20日、大阪府が2万円で買い上げることになり、あらためて大阪府立箕面公園が誕生する。
大正時代に入ると、大阪府は公園の整備事業を進める。
昭和42年12月、府営箕面公園とその周辺の森林963haが、明治百年記念によって「明治の森箕面国定公園」となる。この時、東京の高尾山も同時に国定公園となる。43年には、その中心施設として箕面ビジターセンターが開設される。
電車と動物園
【阪神急行電鉄箕面線】
阪鶴鉄道(大阪~舞鶴)は明治39年に鉄道国有法によって政府に買収されて国有になる。(これが現在の福知山線である)
同社はその後、北摂地域に鉄道を引くことを計画し、その事業母体として箕面有馬電気軌道(株)を設立する。初代社長は北浜銀行頭取の岩下清周、三代目社長が小林一三。
明治43年3月10日、梅田~宝塚、石橋~箕面間が開通。
現在、箕面駅前のロータリーは、当時の、電車の折り返しのためのループの跡。当時このループはラケット線と呼ばれた。
同時に、池田市に室町住宅の建設分譲を行い沿線の開発を進める。また、箕面に動物園を開設。(現在のスパーガーデンの所)
箕面有馬電気軌道は、大正7年、阪神急行電鉄と改称される。
【箕面動物園】
明治43年、電車の開通に合わせて開設する。(日本で3番目の動物園)
広さ3万坪(99,000㎡)、延長5kmの観覧遊歩道。
蓬莱橋を渡ると、入口は不老門と名付けた竜宮城型の門、観覧車もあった。
宝塚少女歌劇の前身の舞楽堂翠香殿も設けられた。
動物飼育用の洞窟が現在も残っている。
大正5年に廃止され、宝塚に移転する。拡張すべき余地がないとの経営判断によるが、動物の屎尿の臭気に対して近隣から猛烈な苦情があったのも原因と云う。
跡地は岸本汽船の岸本兼太郎氏の別荘地となる。
箕面観光ホテルと箕面温泉
岸本兼太郎氏の別荘となった動物園の跡地には、昭和26年箕面観光ホテルが作られて開業。
昭和30年、温泉が発見され、昭和40年、箕面温泉スパーガーデンが併設される。
山の上にあり、最初はケーブルカー(当時、日本最短のケーブルカーと云われた)で上ったが、平成5年にエレベーターとなる。
財界人クラブ松風閣
現在箕面観光ホテルがある場所に、明治時代中頃(年次不明)、北浜銀行頭取岩下清周ら7人によって、関西財界人クラブが建てられ、松風閣と名付けられる。
桃山風の総数寄屋普請で3階建て。土台は清水舞台作りの木組。3つの茶室は全国の銘木を集めて贅を尽くす。
明治の元勲公爵桂太郎が愛妾「お鯉」を伴ってしばしば泊まり、桂公爵別邸と俗称される。
現在は、箕面観光ホテルの別館「桂」となっている。
<註>桂太郎
弘化4年~大正2年(1847~1913)、長州藩出身、陸軍大将、総理大臣3回、公爵。山県有朋の下でドイツ式陸軍を編成し、陸軍大臣を4度。
第1次桂内閣では日露戦争、第2次桂内閣では韓国併合、幸徳秋水らの弾圧。第3次桂内閣は、民衆の憲政擁護の反対によって3ヶ月で総辞職(大正政変)。
<註>お鯉
本名は「安藤照」。「お鯉」は芸者名。しかし、芸者を辞めた後も、人々は「桂公のお鯉さん」と呼んだ。明治13年、東京四谷の漆問屋に生まれ、14才で花柳界に入り新橋芸者となる。江戸前の気っぷの良さとその美貌が評判を呼び、新橋の「照近江のお鯉」として有名な存在となる。
明治37年、日露戦争の最中、山県有朋の要請により総理大臣桂太郎の妾となり、赤坂榎町の妾宅に移る。
大正2年、桂太郎が死去した後は、人の世話になることを嫌って自らカフェや待合いを経営するが、勝ち気な気性で警察とトラブルを起こすと尼僧となり「妙照尼」と名乗り、昭和13年、無住で荒れ寺となっていた目黒の羅漢寺の尼住職となる。昭和23年、69才でこの世を去る。
野口英世の来遊
野口英世像
大正4年10月10日、博士の一行は大阪城を見物し、途中茶屋で一服した後、箕面に向かった。母親のシカは、足が遅いし茶の湯の作法も知らないからと、一足先に「琴の家」に到着した。琴の家の女中は、この田舎者らしい老婆を今夜主賓の博士の母とは気付かず、玄関脇の控部屋に通した。やがて、博士一行が到着し、それと知って女将は平身低頭して恐縮したと云う。
やがて料理が運ばれると、博士は自ら箸をとって料理を母の口に運び、人目を憚ることもなく、懸命に母に給仕することに余念がなかった。その姿に舞妓の八千代は、涙が溢れるのを抑えるることができず、そっと席を外して、ハンカチで眼を拭ったと云う。
その話を聞いて心を打たれた女将の妹の南川光枝は、自分が所有する土地を処分して50万円を作り、心ある人たちにも募金を募って、250万円で、琴の家に近い高台の上に博士の銅像を建てた。昭和30年11月である。野口英世はすでに昭和3年に、この世を去っていた。アフリカのガーナで黄熱病の研究中に感染し殉職したのである。
銅像は横浜で造られ、川西まで汽車で、そこから牛車で箕面まで運ばれ、そして、箕面の駅前からは紅白の綱を子供たちが曳いた。
ちなみに、2004年から発行された新しい1000円札には野口英世の肖像が用いられている。
なお、野口英世(明治9年~昭和3年)は福島県生まれで、幼名は清作と云った。
大正11年(1922)日本建築協会が主催する住宅改造博覧会が桜ヶ丘で開催された。「将来の生活様式に見合った中流家庭向けの住宅はどうあるべきか」をテーマとし、総面積16,500m2の会場には、洋風でハイカラな実物の住宅25戸が出品された。これは我が国最初の住宅展示場である。
これらの住宅は、博覧会閉会後に販売され、その幾棟かは現在も当時の姿を残している。うち4棟は国の登録文化財となっている。また、この桜ヶ丘洋館通は平成9年に「大阪まちなみ賞」の特別賞を受賞している。
明治の森箕面国定公園
東海自然歩道出発点
昭和42年(1967)環境庁は明治百年記念事業として、東京の高尾山と大阪の箕面山とを国定公園に指定した。それぞれに明治の森高尾国定公園、明治の森箕面国定公園と名づけた。これは、明治4年(1871)に高尾・箕面が我が国最初の公園地となったことによる。明治の森箕面国定公園は面積=963 ha、植物=約1300種、昆虫=約3500種。
昭和43年(1968)大阪府営によって箕面ビジターセンターが開設された。これは明治の森箕面国定公園の内容を説明するのを目的としたものである。
さらに、昭和45年(1970)には厚生省が東海自然歩道の建設に着工し、昭和49年(1974)に完成させた。これは東西の明治の森国定公園を結ぶ自然歩道で、総延長1697km、11都道府県を通るものである。箕面側の出発点は政の茶屋のビジターセンター脇である。
この49年、これに合わせて、大阪府も豊能自然歩道を開設した。
<註>国定公園
国定公園は国立公園に準ずる景勝地として環境庁が指定するもので、管理は所在地の都道府県。現在全国で55。(自然公園は、国立公園28、国定公園55、都道府県立自然公園309:2007年現在)
箕面市の成立
M22・4・1 江戸時代の旧村が合併→箕面村・萱野村・止々呂美村・豊川村
S23・1・1 箕面村→箕面町
S23・8・1 箕面町+萱野村+止々呂美村→箕面町
S31・12・1 箕面町+豊川村→箕面市 (市制施行の時の人口は34,804人)
S31・12・25 旧豊川村の東部が茨木市へ移る
S32・4・1 茨木市へ移った地域の中の川合地区が箕面市に移る