尼崎市の歴史
目次:【古代あたり】
今回は尼崎市の歴史について記載いたします。
ダウンタウンのお二方出身ということは有名ですね。
古代あたり
猪名川と武庫川という二つの流れが育んだ尼崎地域には、
海・川と大地の産み出す豊かな実りを求めて、原始より人々が居住しはじめました。
やがて、古代から中世にかけては、大和・難波・京といった政治・経済の中心地と、
西国・瀬戸内を結ぶ海陸交通の要地として、
尼崎の地は栄えました。さらに近世には、大坂の西の備えの城下町として発展し、
近代には日本有数の工業都市となるなど、歴史のなかで常に重要な位置を占めてきました。
「あまがさき」
「あまがさき」(尼崎)という地名が歴史上はじめて登場するのは、
平安時代の末から鎌倉時代初めころのことです。
このころ書かれた「大物(だいもつ)浜・長洲(ながす)浜請文」(真福寺文書)という史料に、
「尼崎浜は大物の南、河を隔て、久安以後の新出地なり」と記されていて、
尼崎が久安年間(1145~51)ころに新たに形成された土地の名前であることがわかります。
現在の阪神尼崎駅から大物駅にかけての南側あたりが、もともとの尼崎という地名の場所にあたります。
さきの古文書に出てくる長洲浜というのは、当時の猪名(いな)川・神崎川の河口に近い場所で、
奈良の東大寺や京の鴨社の荘園がありました。
大物や尼崎は、その長洲浜のさらに南に形成された砂州が陸地化し、港町となっていった場所です。
鎌倉・室町期
尼崎は、鎌倉・室町期の記録には「海士崎」「海人崎」「海崎」とも書かれており、
いずれも読みは「あまがさき」と考えられます。
「あま」という言葉は、今日では海に潜って貝などを採る女性を指しますが、
古代・中世においてはより広く、漁民・海民を意味していました。
また、「さき(崎)」は岬にも通ずる言葉で、今日でも海に突き出た場所を指す際に使われます。
つまり、漁民・海民が住む海に突き出た土地というのが、地名の由来と考えられます。
近世の尼崎
この港町尼崎が、近世には尼崎城の城下町となりました。
近代に入ると、旧城下町を中心とした行政区域としての尼崎町が成立し、
何度か周囲の村を合併して、現在の尼崎市となっていきました。
12世紀頃描かれたと考えられる、東大寺領猪名荘の荘園絵図。
荘域の南には「長渚浜」「大物浜」といった地名が記されている。
荘園の支配
平安時代から中世にかけての尼崎市域では、地域ごとに開発が進み、
さまざまな荘園がつくられていきました。
そのなかには、平安時代に摂関家に柑橘を納める果樹園として出発した橘御園(たちばなのみその)のように、どこか1か所の領域にまとまっているのではなく、現尼崎市域から伊丹・宝塚・川西などにかけて広く散在していた荘園もありました。
猪名川・神崎川の流域には、原始・古代の尼崎でとりあげた猪名荘・長洲荘、長洲御厨のほか、
現豊中市域から戸ノ内にかけて広がっていた椋橋荘、猪名荘・長洲荘と隣接し、
ときに争いをおこした浜崎荘、杭瀬荘、さらに下流域を領有した富島荘などがありました。
比較的流れがおだやかで、人が住みやすい場所の多かった猪名川流域に比べて、
土砂の流量が多く荒れることの多かった武庫川水系流域でも、この時代には開発が進みました。
西昆陽荘、野間荘、武庫荘、富松荘、生島荘、大島荘(大島雀部荘)など、さまざまな荘園が存在したことが知られています。
こういった荘園を領有していたのは、当時の摂関家などの貴族や、東大寺・鴨社・春日大社といった寺院神社などでした。
領有権が譲渡され、領主がしばしば交替する荘園もありました。
近世の尼崎
近世に入ると、政治・経済・軍事などあらゆる面で、大坂が幕府の西国支配の最重要拠点となりました。
その西に位置する尼崎は、軍事上、大坂の西を守る要(かなめ)の地として、
幕府から重視されることになります。
このため幕府は、大坂の陣ののち、元和3年(1617)に譜代大名の戸田氏鉄(うじかね)を尼崎に配置し、新たに四層の天守を持つ本格的な近世城郭を築城させました。
築城工事は元和4年(1618)に開始され、数年後に完成したものと思われます。
寺町の本興寺開山堂
この尼崎城築城にともなって、城の建設地や中世以来の尼崎町にあった寺院が、
城の西に集められて寺町となりました。
寺町には今も11か寺が残っており、建物や収蔵品には文化財に指定されているものも多く、
江戸時代以来の城下町の面影を現在に伝えています。
寺町の南には武家屋敷町が配置され、また少し後には城の南の島に築地町が建設されて、
近世城下町としての尼崎町ができあがっていきました。大坂から西国へと通じる中国街道が、
城を南に迂回して城下町を通過していました。
明治維新によって尼崎藩はなくなり、尼崎城も廃城となりました。
藩主の桜井氏は東京へと移住し、残された士族も多くは困窮するなど、
城下町は一時期活気を失います。
こうしたなかで、徐々に近代化・都市化が始まりました。
産業・交通の発達
まず、明治7年(1874)には、官設鉄道が大阪・神戸間に開通し、
現JR尼崎駅である神崎ステーションも開設されました。
続いて明治24年には尼崎・伊丹間を結ぶ川辺馬車鉄道が開通し、
のちに摂津鉄道・阪鶴鉄道を経て、現在のJR宝塚線となりました。
さらに明治38年には阪神電気鉄道本線、大正9年(1920)には
阪神急行電鉄(阪急電鉄)神戸線・伊丹支線、
昭和元年(1926)には阪神国道(国道2号線)が開通するなど、交通網が次々と整えられていきました。
大正5年(1916)頃の尼崎紡績
産業の面では、農業や漁業も引き続き盛んでした。
しかし、綿や菜種といった近世以来の商品作物や、
城下町の繁栄を担った中在家の魚市場などは、明治の半ばころから徐々に衰退していきます。
その一方で、新田地帯では綿にかわって尼いもと呼ばれる甘藷の生産が広がり、
海岸部一帯が一面のいも畑となるなど、特産品も様変わりしていきました。
城下町も徐々に活気を取り戻し、特に旧中国街道の道筋にあたる本町通商店街は、
明治後半頃から昭和戦前期にかけて、阪神間でも有数の活況を呈していました。
こうしたなか、尼崎と大阪の資本家が明治22年(1889)に設立した尼崎紡績(のち大日本紡績、ユニチカとなる)をはじめ、明治半ば頃から工業も発展していきました。
尼崎市の誕生
尼崎市役所
産業・交通の発展に対応して、行政機構も変化していきます。
明治22年の町村制施行時には、現尼崎市域には城下町を中心とする尼崎町と、
小田・大庄・立花・武庫・園田という5か村が設置されました。
このうち尼崎町が、人口の増加や都市化の進展などにともなって、
立花村の一部を合併して大正5年(1916)に尼崎市となりました。
戦後尼崎の都市課題
昭和40年代前半頃の防潮堤
この時期の尼崎にとっての最大の課題は、工業用水の汲み上げによる地盤沈下が原因となって、
毎年のように繰り返される高潮被害を防ぐための防潮堤の建設でした。
特に昭和25年のジェーン台風は、戦前の室戸台風以上に深刻な被害を尼崎市域にもたらしました。
このため、尼崎の海岸部全域を覆う大防潮堤の建設が計画され、昭和31年3月に完成しました。
高度経済成長期には、工業生産の拡大に加えて、北部を中心とした住宅地開発も一層進み、
市域の農地は急速に失われていきました。
人口の増加も著しく、昭和45年には55万4千人とピークを迎えます。
それと同時に、地盤沈下に加えて大気汚染や河川水質汚濁、
騒音等の公害問題が一層深刻となるなど、急速な都市化の弊害がさまざまな形であらわれました。
このため、工業用水道の設置(昭和33年給水開始)や公害防止協定の締結(昭和44年第1次協定)など、抜本的な公害対策がはかられていきます。
さらに昭和48年の第1次オイルショック以降、日本経済の構造変化が進むなか、
戦前以来の尼崎の工業も大きな転換をせまられ、
工場の転出や閉鎖、人口の減少など、都市としての活力の停滞を余儀なくされていきました。
新たなまちづくりの始まり
こうしたなか、1980年代から90年代にかけて、
都市環境の整備・保全や市民福祉の充実、産業構造の転換、文化の振興など、
市民の生活や意識の変化、時代の要請に応じた施策が取り組まれてきました。
平成7年には阪神・淡路大震災によって大きな被害を受け、その復興もまた大きな課題となりました。
このように、尼崎市は引き続きさまざまな都市課題に直面しており、これらの課題の解決と都市の活性化をめざして、21世紀における新たなまちづくりに取り組んでいます。
(尼崎市HP参照)